ホロコースト関連本の67人訳が出版されるまで |
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この本は『ザメンホフ通り』と言い、特に歴史物に強い中堅出版社の原書房から出版されたものである。もともとはポーランド語で出版されたもので、のちエスペラント語に訳された。04年秋には、リトアニア語、クロアチア語でエスペラント語版からの翻訳が出ており、その後チェコ語、ポルトガル語、スロベニア語にも翻訳され、いまだに数ヶ国語に翻訳が進行中である。この本はエスペラント語を創ったザメンホフの孫のザレスキ・ザメンホフへのインタビュー形式になっている。 1942年当時、ワルシャワのザメンホフ通りは、ユダヤ人たちをトレブリンカ(「最終解決」センターと呼ばれていた)へ輸送する列車に乗せる「積み替え広場」へと続いていた。 いわゆるホロコーストに続くものである。ザレスキも同じようにこの通りを歩かされたが、全く奇跡的に死への旅路から生還できた。その体験記と、その後の彼の専門になった建築関係の話やエスペラント語の思想的なこと、歴史的なことなども本書には記載されている。 |
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特に当時のワルシャワにおけるゲットーの模様は細かく記されている。後にザレスキは橋梁関係の専門家になったので、本州四国連絡架橋などのコンサルタントとして日本にも何回か来ている。 当初、作家の小林司氏がポーランド放送の人から、このエスペラント版を贈呈されたのがきっかけで、反ファシズム、民族差別反対、反戦、エスペラントの広報に役立つ、などの理由で翻訳する価値があると考え、これの共同翻訳を私とザメンホフ研究家の中村正美氏に提案、プロジェクトがスタートした(のちに、この3人が監訳者となった)。共同翻訳方式としたのは、一人あたりの負担を減らすことと、訳者相互間の連帯感を強め、知恵を共有しようとしたからである。実際、共訳者の中には色々な分野の人がいたので、解決できたことも多かった。たとえば、「涙の谷」ということばを誤訳しかけたが、聖書の詩篇にある単語だと知っている訳者がいたし、また、PSコンクリート関係の術語についても専門家がいたので適訳が出来たと思う。 まず、「ネットに公開するだけなので、無料で翻訳を許可してほしい」と原著者2人に頼むのが最初の難関だった。次の難関は翻訳者を集めることだった。条件としては、翻訳能力があることと、メールが出来ることだった。データのやりとりなどのためには、どうしてもメールが必要だったので、情報交換のためのメーリングリストをたちあげた。 候補者の選定依頼を複数の人に依頼し、結果的に67人が参加した。先ず2003年12月に翻訳箇所のコピーを分担者に送付、2004年1月末を締め切りとした。一人当たりの割り当ては原書4ページほどで、正月休みに翻訳してもらった。一人の脱落者もなく、締め切りまでにすべての訳稿が揃ったのはすばらしいことである。その後、この翻訳は監訳者により修正されたものがホームページに公開され、これを読んだほかの訳者が意見をメーリングリストに書き込み、これに対して他の訳者がさらに意見を書き込むというような手順で翻訳を改善していった。結局、一次訳は1ヶ月だけだったが、修正には9ヶ月を要したことになる。 また、原書には間違いがいくつかあった。これらの指摘や、ポーランドの制度や風習についての質問などで、主人公ザレスキとの質疑応答が23通、著者ドブジンスキとは70回ほどのメールが往復した。ザレスキはメールが出来ないので、すべてファックスに頼ったが、これがなかなか大変だった。その間、朝日新聞(2004.5.17)、同社のホームページasahi.com(5.23)、International Herald Tribune(6.5)、週刊金曜日(6.4)、Yahoo Japan (6.29)などに、このプロジェクトについての記事が掲載された。IT時代にふさわしく、メールを利用したことや、67人もの人が参加していること、ゲットーの悲劇などが話題を呼んだためである。驚いたのはホームページの威力で、asahi.comに記事が載ったとたんに、1日3000人がホームページに殺到、2005年1月15日の出版までに13000人がアクセスした。それらの影響もあり、関係者が奔走した結果、原書房から出版されることになった。 原本には写真が4葉しかなく殺風景だったので、写真を45葉載せた。ザレスキの建築物の写真は、彼の娘さんに添付ファイルで送ってもらった。本に載せたゲットーの貴重な写真は、ドブジンスキに頼んでワルシャワの「ユダヤ歴史研究所」の秘蔵写真コレクションから借りてもらった。彼にはこれらに限らず、色々お世話になった。さらに、訳書には小見出しをつけ、読みやすい形にしたものを、推敲力に強い人に読みやすい日本語に修正してもらった。 2005年のリトアニアで行われた世界エスペラント大会では、各国のこの本の翻訳者が集まり、「ザメンホフ通り分科会」が行われたが、ここではこの日本語訳については非常に高く評価され、主人公のザレスキからもその場で感謝された。 こうして2005年1月15日には、立派な装丁の邦訳(454p.)が原書房から出版された。出版が1月になったのは出版点数の少ない時期を選んだためである。 この本の序文を書いてもらったドイツ人で日本駐在も経験がある世界的な歴史研究家のウルリッヒ・リンス氏、また特別寄稿を引き受けてくれた主人公のザレスキ、またホームページ作成・メーリングリストを立ち上げてくれた人、数千箇所に及んだ日本語修正をしてくれた人、ポーランドの固有名詞の発音表記の校正を依頼した人などたくさんの人の協力をいただいた。 出版後は書評が産経新聞(2005.2.27)、信濃毎日新聞(4.10)、週刊金曜日(4.1)などに載り、少しは売れたようである。ただ454ページという大部なので、これを読了するのも結構大変である。出版前に、一部内容を省略して、もっと薄くして入手しやすくしてはどうか、と出版社に持ちかけたが、いや資料だから、と言われて、全部を包含することになった。ゲットーなどに関心を持っておられる方には一度手にとっていただけると幸いです。公設の図書館にはたいてい置かれています。 |