第9章 民族主義・無国民主義・汎世界主義
                                                              (この章は山口美智雄訳)

1.民族と国際語

  ザメンホフ(Z)は、1911年7月26日から29日にわたってロンドンで開かれた世界人種大会宛の覚書"Gentoj kaj lingvo Internacia(人種と国際語)" (Originala verkaro, Joh. Dietterle 編、1983年復刻版 p.351 参照)のなかで、民族間の憎悪の原因について自分の考えを明らかにしました。その部分を引用すると(Ludovikito, kajero 9、p.177. 以下LDと略す)、こうです。「・・・さて、これまで述べたことをまとめると、次のような原則的結論となります。「民族間の分裂と憎悪は、全人類が一つの言語、一つの宗教となるあかつきに、はじめて人類から消滅するだろう。そのときに、人類はじっさい一つの民族となっているからである」・・・」(『国際共通語の思想』水野義明編訳,東京:新泉社,1997年,p.118 - p.119. 以下 KSと略す)
  なるほど、ここに書かれていることはもっともなことです。けれども次のような疑問が湧くはずです。つまり「人類が一つの言語と一つの宗教しか持たない状態になるには、どうしたらいいか」です。それはアメリカ合州国やソビエト連邦(ロシア)や中国といった現代の大国のうちの一国か、あるいは将来に出てくるかもしれない政治権力の中心が、全世界を征服したり戦勝国になって支配するという形でなら成り立つのかもしれませんが、それ以外では、そんなことは簡単には出来ません。全世界の征服は、戦争という手段によってのみ可能なのですから、もしそうなれば核戦争である第3次世界大戦となって、全人類を完全に滅ぼし尽くしてしまうでしょう。そこで他の方法を考えてみますと、全人類を統合出来る手段としては様々な精神的な力に頼ることしか考えられません。Eという言語とホマラニスモ(homaranismo)とが全世界に広まることが、人類の統合を可能にする基盤なのですが、それは即座に実現出来そうには思えません。「人類の統合が必要なのだ」という意識が一般的になり、そういう考え方に沿った新しい感覚が広まって初めてそれは可能になります。では、「さしあたりすぐに出来ることは何か」ですが、それについてのZの考えを同じ覚書 (LD−9.p.178)から引用してみます。「・・・人類は、次のような生活様式に従うべきだと思います。「自分の言語集団や宗教集団内部の生活では民族言語や民族宗教を保持してもよいが、他民族との関係ではすべて中立で・人間的な言語を用い、中立で・人間的な倫理や慣習や生活様式にしたがう・・・」(KS-p.120)
  この覚書の最後(LD−9.p.180)に、Zは次のように記しています。「・・・一時しのぎの妥協策やずる賢い政治的取引きによってでは、人類に平和をもたらすことはできません。しかし、E運動が世界中で強力となり、さまざまな民族の人びとが中立的基盤に立って会合と交流を重ねていけばいくほど、心情も精神も理想も苦難や苦痛も全人類に共通だという意識がますます強まり、過去の民族間の憎悪は未開時代の遺物だったと思うようになります。この中立の基盤からのみ、あらゆる民族あらゆる時代の予言者たちが夢見た、未来の統一された人類、純粋に人間的な人類が、少しずつ育っていくのです。・・・」(KS-p.123)
  上に引用した文章は、ZのE普及運動についての考え方を示すものです。これを現代の観点から言い換えると、人類の新しい意識のもとに生じた新しい感覚だと定義出来ます。なぜなら、Zがこの覚書を書いたのはヨーロッパに今よりはずっと楽観的な雰囲気があった時代のことでした。その頃には、ロマンティシズムが当時の人々にまだ強い影響を与えていました。この覚書が書かれたのは1911年でした。しかし、1914年には第1次世界大戦が勃発し、1939年には第2次世界大戦が始まってしまい、第2次大戦の終結(1945)には原子爆弾が広島と長崎の上空で炸裂したのです。これは疑いもなく人類に歴史的・社会的な展開の今までとは異なる段階が来たことを告げる大事件でした。
  火の発見は人類の先史時代の始まりを告げていますが、その時代に人々は地球上の各地に広がって住み着き、他のあらゆる生物の上に君臨する存在となりました。先史時代がその後半に入ったことを示す出来事は、およそ1万年前の新石器時代に農業と牧畜が始まったことです。現在は原子核の時代になり、それは新しい、しかも極めて重大な時代で、人類は物質面での統合を成し遂げて自然を支配していますが、人間自身を破滅に導くことが出来る力をも同時に手に入れてしまったのです。
そこで1911年のZの考え方は、この現代の視点からもう一度考え直さなければなりません。昔は人類の統合なんて、夢のような理想主義でした。現代の原子核時代にあっては、人類統合は人間という種の存続自体に当然必要欠くべからざるものとなり、理想だなどと言ってはいられなくなりました。今や問題は新しいセンティメンタルな感覚を世界に広めることではありません。「新しい人間的な文明を採り入れるためには、人類の統合が必要なのだ」ということをみんなが認識することによってもたらされる新しい感覚を広めることが問題なのです。讃歌 ”La Espero ” の歌詞に「新しい感覚(nova sento)」と歌われた理想主義は、心の問題に属することであって、義務ではありません。しかし、新しい文明を導入するための新しい感覚は、歴史の展開による様々な新しい状況を認めた時にもたらされるものです。これは以下に述べていく予定の「人権」についての相互の義務、つまり「人間的義務」に属することですから、すべての人に義務づけられてしかるべきる性格のものです。
  昔は交通の手段が未発達で遅かったにもかかわらず、ヒンズー教・儒教・キリスト教・イスラム教などが世界各地に広く伝わりました。現代では人類統合のための新しい感覚を全世界に広める必要が生まれています。昔の各種の宗教活動が神秘的であったり感情的であったりしたとすれば、現代の新しい感覚はそれと違って理性に基づくべきものであり、新しい文明を築くという理性に基づく義務の意識から生まれなければなりません。世界の統合は、Eという言語やその感覚あるいは内在思想(interna ideo)を広めることから容易に取りかかれるでしょう。そのためには、国家が法律でEの学習を義務づけるのではなくて、人々が自ら進んでEを学ぶだけで充分です。政府はこの新しい感覚から生まれた世論に押されて行動するでしょう。

2.民族主義またはナショナリズム

  Zはこう述べています。(Hebrea Ligo (ユダヤ人連盟)設立会議への招待状に対する返信,1914年 6月30日,LD−9.p.403) 「・・・私は、ナショナリズムというものは全て人類に対して最大の不幸をもたらすものだと強く確信しています。あらゆる人間が目指すべきことは、調和のとれた人間集団をつくることです。なるほど弾圧されている民族のナショナリズムは、自衛のための自然な反応ですから、弾圧を加えているがわの民族のナショナリズムに比べれば大目に見てもいいのかもしれません。しかし、強大な集団のナショナリズムが高貴なものとは言えないとするなら、他方の弱小集団のナショナリズムもやはり思慮深いものとは言えません。これは互いに一方のナショナリズムが他方のナショナリズムを発生させ、持続させることになる、不幸な間違った考えです。もし私たちの誰もが、自分の集団に対する利己的な愛を捨てて、中立的な立場を採らないかぎり、人間はこの不幸から決して抜け出すことができせません。・・・」
  人間が社会的存在であることは疑いのないことですが、人間の自然発生的な社会本能は、単に氏族だとか一門だとかの家族あるいは家系といった小集団に関わるだけのものにすぎず、種族集団よりも大きな集団を作るほどの大きな力を持っていません。社会集団が種族集団より大きなものである場合には、社会の連帯感は競争意識に取って代わられれてしまい、自然発生的な社会本能は連帯のためには何の役にも立たなくなります。
  世界の各地に人間が広く住みつくようになると、人類は同族集団の枠を越えた大きな単位の社会集団を本能によっては組織することが出来ないので、それぞれに持っていた連帯意識を、社会本能による小集団とでも呼ぶべき小社会集団以上の、広大な集団にまで広げることは出来なかったのでした。同族集団以上の社会的大集団は征服者の強制的暴力によって、あるいは本能とは別の文化的な結合力によって成立したのです。仮にそれが暴力によって成立した社会集団であっても、文化的または精神的結合力によって安定を保てるのです。強制的な権力によって統一されているどんな社会でも、強制力とは別の何らかの結合力の介入がなければ、そのままの形では長く存続しません。なぜなら、そういう強権が集団内部の退廃現象だとか、例えば敗戦といった外部の力のために弱体化した時には、そういった社会集団は分裂してしまうからです。数々の強大な帝国はそのようにして没落しました。エジプトのような古代の巨大な国家のいくつかはファラオ(帝王)を神格化し、それを精神的な結合力にしていました。近代では、封建社会が崩壊した後に絶対専制君主国が成立した時に、神から授かった恩寵としての王権が国家統合の力として働きました。集団の結合力としての民族主義あるいはナショナリズムはフランス革命(1789)以降のものです。ただし、ナショナリズムへの移行の形跡は、すでに宗教改革の時代(16世紀)に諸民族の言語がラテン語に取って代わって学芸用語として使われるようになったという事例に見ることが出来ます。
  ヨーロッパの中世(4−15世紀)には、封建領主たちが互いにしのぎを削っていましたが、後には専制君主たちが戦いを交わすようになりました。フランス革命以降は、軍隊は平民からなる集団になりました。軍隊の組織は革命前とは違って、少数の職業軍人によって構成されるものではなくなり、民衆を隊員とする組織集団になったのです。ナポレオン(1769−1821)に抗して戦った他の国々と同様に、革命下のフランスでは徴兵制が導入されました。愛国主義によって諸大国が安定を保ち、イタリア王国(1861)やドイツ帝国(1871)が、民族主義の猛進によって国家統一を成し遂げて大国となったのは19世紀のことでした。
  こういう大国の間の競争から第1次世界大戦(1914)がおこり、ドイツの民族主義あるいはナチズムが引き金になって第2次世界大戦(1939)が勃発しました。
第2次大戦以後は、民族主義は戦争の主要な動機づけとしては働いていません。種々の人間集団は戦場に身を捧げることには、それほど熱狂しなくなりました。国家間の紛争は既に民族の枠を越えてしまい、様々な巨大な権力中心のもとでのイデオロギーの対立を口実におきるものとなりました。実際、世界を今二つの大きな陣営に分裂させ、やがて三分裂させるものは、全世界の政治権力を一手に収めようとする権力闘争です。これは本質的には古代の種族間抗争の原理と同種の原理から生まれた現象です。
民族主義を分析してみますと、それには二つの面があることがわかります。それは表面では大国内部の社会的結合力になっていますが、反面では大国間の競争を生み、近代の戦争を引きおこした主な原因となっています。
  大国のナショナリズムは歴史が進むにつれて危機的な点に到達してしまいました。それはもはや団結を促す前向きの要素ではなくなり、人々を結束させて封建的な小集団を統合する力はあっても、もっと大規模な社会集団を形成する要素ではなくなりました。今ではそれは全く逆の方向に働く後ろ向きの要素になりました。たとえ、他の様々なイデオロギーの仮面を着けていても、全世界の支配権を手に入れようとする戦争の根源はナショナリズムです。人類を統合して民族国家の枠組みを越えた大規模な社会集団を形成するには、ホマラニスモが民族主義に取って代わらねばなりません。
強者の民族主義あるいはナショナリズムが歴史的発展の最終段階限界に到達すると、弱者の民族主義あるいはナショナリズムが現れます。
  大国というものは、どんな国でも均質な社会ではありません。国家形成の過程で大国はいくつかの小国、特にもとは封建国家であった小国を飲み込んで一つの国家を形成しました。国家が発展していた間は様々な統合力が働いて分裂を促す力を押さえていましたが、没落が始まったり、現代ではしばしばおきることですが、分裂勢力が現れて国外の植民地が独立したりすると、その大国の内部でも分離独立の機運が芽生えました。大国であることはもはや理想ではなくなり、人々は未来の理想について夢見るかわりに、ロマンティックに理想化された過去を振り返って見るようになりました。
大国はいくつかの小国から形成されたものです。その結合力は多かれ少なかれ、その国家を均質化しましたが、やがて内部の弱者たちのナショナリズムという形で分裂要因が再現します。弱者たちはその縮小された領域のために、既にもともと大国よりは均質化されています。こういう国家と無関係な民族主義は、伝統的なものに結びついている小地域という、はるかに均質的な枠組みのなかで懐古的な理想主義となって花開きます。こういう民族主義は血族的な社会集団に由来するものと思われるために、同族集団的な性格を持つものと考えられがちです。しかし現代世界が同族集団に基づいた地理的境界線で区分されていて、同族を単位とするいくつかの地域に分割されていると考えるのは、現代では根拠のないセンチメンタルな夢想にすぎません。一般論としては、世界のどこかに程度の差はあるにしても、ある血統が純粋な形で残っている可能性はありますが、現代のように交通が発達した状況では、異なる種族間の血は大概の場合は混じり合っているものです。したがって、いわゆる種族の違いは、血統の違いによるのではなくて、言語や風俗習慣や民間伝承などにに基づいているのです。言語、風俗習慣、民間伝承は、実を言えば伝統的なものに結びついている文化的な諸要素です。現代の同族的小集団は歴史的発展の過去の段階への回帰を目指しているわけですから、歴史的には後戻りをしているのです。弱者の民族主義という名でひとまとめにされている現代の同族主義は、ロマン主義的思考の残存以外の何物でもありません。

3.無国民主義

  フランス革命(1789)から20世紀末の現代に至るまで、過去の戦争の最大の原因は民族主義でした。
フランス革命は、当時の近隣諸国(オーストリヤ・プロシア・ロシア・イギリスなど)との戦争によって、息の根を止められる危険を冒して敢行されました。フランスの農民は封建領主の耕作地を自分のものにしていました。そうして既に自分が所有している耕地と祖国の双方を、戦うことによって守ったのでした。フランスの民族主義が革命の旗のもとに、その頃誕生したことは不思議ではありません。フランスは対外戦争を前にして以前よりはずっと強固に、ルイ14世(1638−1715)治下よりもさらに強く団結するよう努めました。フランス革命の最中も革命後も、フランスのどの少数民族も独立をもくろむことはありませんでした。ラングドックもブルターニュもコルシカ島も、パリの中央政権から独立しようとして反抗することはなかったのです。ナポレオンは、この民族主義的なムードを利用してフランス三色旗のもと、三語のモットー「自由・平等・博愛」を掲げて征服戦争を始めました。ヨーロッパの他の国々の政府は、それぞれの国の愛国心を再び呼びおこし、連合軍を作ってナポレオンに対抗して戦いました。スペインでは自由主義者と反動保守勢力が愛国主義のもとに団結しました。フランスの侵略軍を協力してて追い払うために小作農民さえもフランスの侵略に対抗して戦いました。各国の民族主義の力は愛国主義のもとでは、ナポレオン軍の「自由・平等・博愛」の旗よりも強力でした。その結果スペインでは専制君主制が復活しました。同様な展開をナポレオン大遠征時のロシア帝国でも見ることが出来ます。現実にはナポレオンの軍隊は、それら三つの美質「自由・平等・博愛」をもたらすことはなかったのですが、もしかしたら小作農民階級にとっては自分たちの王の支配下に留まるよりは、ナポレオンの支配に服するほうを選んだほうがよかったのかもしれません。ところが実際には、民衆は外国の支配よりは自分たちの領主に従うほうを選んだのです。実を言えば、ナポレオンはフランスの支配権を目指し、さらに自分が全ヨーロッパに君臨することを狙ったのです。けれども民衆は民族主義に燃え上がり、その結果ナポレオンの敗北後もそのまま農奴の身分にとどまりました。
  当時のヨーロッパの政治は大英帝国の影響があって、力の均衡という方向に動いていました。大英帝国は時にはある国に、また時には別の国に依存するというふうにして、国際政治の先導国になろうとしていました。ナポレオン戦争の後はプロシアの勢力が伸び、さらにその後は統一国家としてのドイツの力が伸びました。フランス・ドイツ戦争(フランス・プロシア戦争 1870)は、フランス側がパリ・コミューン(1871)の支配下に入ることによって終りを告げるのですが、フランスとドイツの間の闘争を再び激化させました。フランスとドイツの対立する二つの愛国主義は主として精神的な力であって、この力があれほどの人命と苦悩と破壊とを犠牲にしてまでも、第1次世界大戦中には民衆を支えたのです。単なる理性的な論理では、フランス人やドイツ人の大部分の人々にあれほどの犠牲を捧げるように説得することは不可能だったかもしれませんが、現実には愛国心という精神力が戦争を支えたのです。他方ロシア帝国は革命(1917)へと崩れ落ちました。すでに1905年の日露戦争の敗北以来、ツアー専制はそれまで専制政治を支え続けてきた威信を失っていたからです。
  第2次大戦中はドイツの民族主義・ナチズムが、あの大量殺戮の引き金になりました。ソビエト連邦側も、支配者として侵略して来たドイツ軍を追い払うための手段としてロシア愛国主義を復活させました。こうして、集団のために命を捧げる人間を効果的に掻き集めるには、民族主義が引き続き有効であることが証明されました。民族主義の根は郷土愛にあります。人間は自分が生まれ、初めて光を見、そこで自分の生活が実際に繰り広げられた父祖の地に、自分が結び付けられていると感じるからです。
  戦争の発生源である民族主義に対して、人は無国民主義をもって対抗出来るでしょうか。無国民主義は民族国家の運命には無関心な態度を取り続けます。無関心ということは、あらゆる「無何々」が全てそういうものであるように、消極的なものであって、感化する力を持ちません。ですから、民族国家の運命に無関心だということは、実際には消極的な後ろ向きの態度を取るということになります。後ろ向きのものは、積極的な影響を与えません。人が国民性に無関心な場合、もっと様々な理由がなければ、自分自身の目の前の利益以外のことには、他の何に対してもやはり無関心になるかもしれません。この利己主義や権力志向は人間の最も原始的な本性に基づいています。この二つの本能は種々の消極的な後ろ向きの態度によっては抑制出来ません。しかし、人間にはある種の団結能力がいくつかあり、家族の枠よりもずっと広い範囲での社会的共生を可能にしています。事実、人間社会が発達したために、そういう団結能力の多くが過去の遺産として残り、社会が衰退するのを防いでいます。しかし、そのような団結能力が否定的な力によってではなくて、それよりもっと優れた精神力に取って代わられるのでなければ、それらは否定的な結果をもたらすだけです。
  昔は氏族集団内の迷信が人間を氏族集団に結び付けていました。その後、様々な大宗教が広い社会の、いや全世界の人間さえをも結合させる力になろうとしました。愛国主義下の民族主義は、支配層と被支配層とが分裂しかけている時でさえ、社会を糊付けして固定していました。無信仰者や無国民主義者が社会に統合をもたらすことはありません。その思想は社会を分散させる考え方だからです。
  Eの内在思想あるいはホマラニスモは、偏狭な民族主義や宗教的な差異を克服し、また、現代が直面している種々のイデオロギーの対立を克服して、人間を全世界的規模の社会集団に統合出来る精神的な力ではないというのは真実でしょうか。統合にとって重要なことは、全地球的で全人類的に広範囲な、全世界のための愛国主義あるいは民族主義という考え方を呼びおこすことです。

4.二大陣営

  Zは民族主義や氏族あるいは部族について語っていますが、彼はそういうものを宗教の違いとともに、人類を分裂させる主たる要素だと見なしています。それらは人と人との間に憎悪を創り出して、戦争を支える道具になるからです。
また E. Lanti(Adam) も、民族主義が戦争の最大要因だと考え、民族性を排除する協会として、全世界無国民協会(Sennacieca Asocio Tutmonda= SAT) を設立しました。けれども、階級闘争の範囲を具体的に示すことなく、SAT は階級闘争のための組織だと定めました。大部分のエスペランティストたちは、平和のための戦士( pacaj batalantoj )ですから、暴力的な闘争を受け入れません。ところが、階級闘争は非暴力的であるべきだとか、暴力的でも武器は使うべきではないとか、武器を用いる暴力的闘争、つまり武力革命であるべきだなどの、階級闘争についての定義は決まっていません。自由は武力革命から生れ出て来るでしょうか。たぶん、そうではないでしょう。そういう実例は歴史上一つもありません。ですから、社会問題に関しても武器の暴力以外の方法を探すべきです。
  ここでもう一つ、マルキシストたちに対して質問したいことがあります。つまり、全世界規模の社会主義社会は、既に永遠に平和で搾取もなく、人類史上の社会的発展の決定的な頂点であり、そのような社会主義社会を実現するためには、資本主義陣営と共産主義陣営との対立は当然で、両陣営間の戦闘は当然不可避だと、あなたがたは考ているのでしょうか。宗教の単一化と同じく、社会の単一均質化も、人間存在の現実というよりは、むしろ夢想に属するものです。今日では、共産主義の事象のもとには未来のアルカディア(理想郷)を実現するための努力よりも、政治権力奪取のための恒常的なより多くの対立が隠れています。またその二つの陣営の対立という事柄には国家主義の存在が察せられます。その国家主義のもとには戦争の最も古い自然発生的な要因、すなわち生存のための競争があり、また支配権をめぐる競争があることも察せられます。
  世界平和は、資本主義と共産主義の二つの陣営のうちの、どちらか一方だけが勝利することによってもたらされるでしょうか。そうなった場合には、歴史は過去の宗教戦争の時代に後戻りしてしまいます。当時の戦争では、闘っている者のうちの、いずれか一方が勝利した後にのみ平和が訪れたのです。それが当時の考え方だったからです。ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントが長く闘っていましたが、現代ではカトリックもプロテスタントもその他の宗派も、たとえ友好的に共存してはいないにしても、少なくとも相互に闘うようなことはしていません。どの宗派の人にとっても共通で最も重要な問題は、不可知論と一般大衆の不信心の問題です。それはお得意様がいない場合の販売競争に似ています。ところで、資本主義と共産主義の間に現在行われている闘争は、宗教の場合におきたのと全く同じように、発展的に解消出来るのでしょうか。多分可能だと思いますが、それは政治家や大衆がそのように納得すればの話です。核戦争は両陣営をともども破壊してしまうかもしれません。宗教の場合と同様に、資本主義か共産主義かという争いは、人類にとって現代では、最も重要な問題ではないと思わなければなりません。資本主義も共産主義も同一の科学技術文明に属しています。どちらのシステムにも、同じように大きな産業や大都市があり、同じような武器があり、大衆は消費や娯楽に対して非常によく似た願望を持っています。冷戦がおきる根本的な理由は、多様なイデオロギーが存在するからではありません。世界の支配権を獲得しようとして、野蛮な奔走をするから戦争がおきるのです。
  かつて、支配権獲得のための闘争(ポエニ戦争、前3−2世紀)が、地中海地方のローマとカルタゴの間におきました。第1次世界大戦(1914−18)はヨーロッパの支配権獲得のための戦争でしたが、当時はヨーロッパを支配することが全世界を支配するということでした。現代では、二つの陣営の間の対立は明らかに全世界の支配権を獲るための闘争です。しかし、軍の首脳たちには核戦争は敵味方の双方を壊滅させてしまうことがわかっているので、植民地主義の最も原始的な意味での分割、つまり経済・文化・政治の各分野に世界を分割して、種々の勢力圏を作ろうという合意に容易に達することが出来るのです。世界の半分は国際語として米語を使う米国の勢力下にあり、世界の残りの半分は国際語としてロシア語を使うソヴィエト連邦の勢力下にあり、その中間辺りに固有の言語を持つ中国があって、これも勢力拡大の準備を整えています。いつか、そのうちに中国と日本が協力して現在とは別の勢力の中心を作るかもしれないし、例えば百年後には、それは勢力の重要な中心になっているかもしれません。他方ソヴィエト連邦は、この勢力拡大を阻もうとしてヨーロッパの協力を求めるかもしれないし、東ヨーロッパは中国の侵略に対抗するために、ソヴィエト連邦に加担するかもしれないのです。これは根拠のある推測であって、空想的なものではありません。第2次世界大戦の敗戦国である日本やドイツやイタリアが、既に経済産業面では戦勝国のいくつかの国々よりも大国になっているという事実には反論出来ないではありませんか。
  さて、エスぺランティストとしては、以上述べた点について何を提言出来るでしょうか。エスぺランティストは民族を超越した中立の言語を持っています。米ソという二つの大国の言語に飲み込まれる脅威にさらされている小言語は全て、Eのもとでは身を守ることが出来ます。エスぺランティストには、友愛という新しい世界的な心情を生み出す内在思想があります。ホマラニスモは単に種々の宗教間の架け橋として役立つばかりではなく、他のあらゆる面での架け橋としても役立ち、過去の宗教的紛争が様々な政治的社会的イデオロギーの対立が過去の宗教的紛争に取って代わっている現代では、ホマラニスモは種々のイデオロギーの間に懸かる橋でもあると考えるべきです。今や世界はこんなに狭くなったので、互いに破壊し合うか、それとも和やかに協力して共存するかというところに追い込まれています。出口は他にはありません。かつては、長期にわたって争い続けていた種々の宗教が、今では平和共存の状態にあるのと同様に、二大陣営の対立も発展的に解消することが可能です。社会的政治的問題は進展していきますが、それには資本主義は市場の計画経済へ向うべきですし、共産主義はプロレタリア専制という、マルキシズムの考え方を緩める方向に向うべきです。両陣営はカトリックとプロテスタントがそうしたように、共存し収束することが可能です。双方の差異はもはや戦争を引きおこすほど重大ではありません。二つの宗派にとって最も重要な問題は、両者に共通の病根、つまり不可知論と大衆の不信心という問題であって、この病根が宗教的信条に関する不寛容を除去したのです。ホマラニスモはあらゆる相関関係での寛容と理解に対して、有効に働きかけることが出来ないのでしょうか。
  今日では共産主義は社会問題の解決を提示していませんし、資本主義もそれ自体思想の自由を表していません。どちらも全体主義に陥っているか、陥る危険性があります。それは文化の退廃現象であって、それは、独裁政治がそうであったように太古の未開状態への文化的退行です。

5.汎世界主義

  人々が直面すべき現代の主要な問題が全世界的規模のものであることは明らかです。そこに住んでいる人々が外の世界を忘れ、ただ自分のことと自分が住んでいる地域のことばかりを考えればいいというような孤立した土地はもはや存在しません。地上はどこも人口過密で占有され、土地は全てそこの住民の私有物だと考えられています。しかし、近い将来に人々が直面するに違いない重要な諸問題は、全世界的規模の問題です。例えば、ひたすら魚を捕り続ければ、魚類がいなくなるかもしれません。ある国だけが自国の海洋生物保護の政策を実行したとしても、問題は解決できません。他の国々が同一歩調を取らなければ効果がないからです。自然環境を保つ場合でも同じです。ある地域で森林を切らないとしても、他の地域で森林を伐採し尽くすかもしれません。そうなると、将来は大気中の酸素含有量が減って、一定の酸素の量を保つことが出来ないかもしれません。そうなった時には森林破壊をしなかった小国家も、森林を伐採し尽くした他の国々と同様に酸素不足で苦しむかもしれません。伝染病の流行についても同じです。現在、天然痘が根絶したのは、誰もが予防接種をするようになったからです。仮に全員がしなかったとすれば、今でもまだ天然痘は人々を苦しめていることでしょう。
  鉱物資源や石油や、一般的に全ての自然資源については何が言えるのでしょうか。この問題に関しては、ただ国家だけに責任があるのでしょうか。それとも、責任は全人類にあるのでしょうか。現代の人間は未来の人間に対して責任を負っています。子孫は現代人が残した状況のままに世界を受け継ぐからです。ところで、私たち全人類の家庭ともいうべきこの世界を、ある世代の人々が廃墟にしてしまった場合、その人々にはこの悪業についての責任はないのでしょうか。自分の身体以外にも、私たちはこの物質世界全体と、宗教・習慣・言語・芸術・科学・技術などの文化の総体を受け継いでいます。しかし、私たちは確かな信念を持たないままに、この世界を受け継いでしまいました。なぜなら現在に至るまで、人間は自分自身の固有の進化や自然の進化発展に対して、世界規模で配慮する集団的行動をおこしたことがなかったからです。過密な世界人口、大量生産のための技術に応用された科学の繁栄、汽船・列車・自動車・航空機の発明、また今日の情報科学の発達など、多種多様な要素が一体となって、現代世界をアメリカ大陸発見(16世紀)以前の世界とは似ても似つかぬ世界にしてしまいました。けれども私たちが受け継いでいる民族性・国境・固有の言語などは、過去の状況をそのまま持ち越しているのです。そこで、本質的な二者択一の問題が出て来ます。これからもずっと今まで通りに行動し、事態の連鎖が成り行き任せで解決するように放置しておくのか、それとも人間が自分自身を見つめ、そのような問題を世界的規模で解決するように努力するのか、この二つが、私たちたちの選択に任されています。しかし、第一の選択肢は混乱を招いて文明を破壊してしまうだけでなく、人間の存在そのものを危うくすることは疑いありません。そのような挑戦をする前に、人間は世界を合理的に育み、昔からある限られた自然資源が枯渇しないように行動し続けるべきです。
人間は、まず自分自身の人間性を高めること、つまり教化が必要であり、次にまた自分自身の家庭ともいうべき、つまり全世界を育て上げる義務があります。そこで、第一には自分が取り扱う諸問題についての認識を深めるべきで、第二には集団で行動に取りかからねばなりません。集団行動でなければ、諸問題を解決出来ません。第三には、先ず、世界的な規模で協力して仕事をしようという意欲を持つことです。そして、意識的で連帯的な新しい文明を現実化することです。
  人類が解決すべき多くの問題のなかでは、言語問題が第一のものです。Eという言語と、この言語が持つ精神は、すでに少数者が抱く夢のような理想主義ではなくなり、全ての人間の義務になりました。私たちの後の時代の世界が、私たちが受け継いだ世界よりはずっと良くなるように努力すべきだという倫理的義務を採用しなければなりません。その努力を続けることで、人間はずっと改善された社会にふさわしい存在になります。
  全世界的な問題を解決するために、まず第一に採り入れなくてはならないのは、民族を越えた言語であるEと、ホマラニスモに含まれている「人類の連帯」という新しい感覚なのです。

6.多様性のなかの統一性

  技術文明が発達したため、私たちの世界は非常に狭くなってしまい、その結果極めて多数の国家や民族で土地の分譲は不可能になり、それは過去の時代から受け継いだ、今の時代には合わない遺物になってしまったくらいです。
  さて、世界の統合は、画一的な形でではなくて多様な形で行われるべきですが、統合は人々の自覚的な行動によってのみ可能になるのは明らかです。無自覚的な歴史条件による世界統合の日を手をこまねいて待っていると、唯一の政治権力を中心にした巨大な帝国、つまり世界帝国が出現する可能性があります。この帝国は、無理やりに力で出来た国で、その画一的性格に加えて、抑圧された民衆の、分離しようとする反発をはらむことになります。「世界に新しきもの何もなし」で、古代に出現したいくつかの帝国は実際その当時の全世界をカヴァーする広大な国家になっていました。しかし、もし人々がそんな画一的に強制されて成立した世界の統合を望みもしなければ好みもしないならば、その際には統合を成し遂げようという大衆の意志に基づいて、自主的に統一世界を作ること以外に選択肢はありません。多様性を持ったままの統合ということは自由意志によってのみ可能であって、暴力はふさわしくないのです。
  世界の人々が必要だと考えている統合は、新しい文化をうちたてることに関わるものです。世界平和を保証するための統合、危機のない経済政策を実行するための統合、環境の均衡に配慮するための統合、共同で自然を守り育てるための統合です。統合に際して、自然資源を消費し尽くさず、水や大気を汚染しないで合理的に使うことにより、自然が常にずっとよく再生され、さらに世界人口が自然の均衡を壊滅させるほどには増加しないように配慮する統合です。例えば、ニューヨークのように人間ばかりで樹木のない世界は、酸素が欠乏して、人間にとって居住不能な環境になってしまうかもしれません。
  戦争の放棄、合理的な自然開発、経済の繁栄、環境の均衡への配慮、さらには人間の自由の保障のためにも人類の統合団結は必要です。これらの問題への配慮を欠いた人類の強制統合も可能ではありますが、権力による世界帝国のもとでの強制的統合は、自然資源の乱開発を続けて消費し尽くすのと同様に、世界の住民の搾取を続けて壊滅に追い込むかもしれません。そういう権力への服従は世界規模のものですが、現在まで歴史上に絶えずおこった政治的現象に似通ったものでしょう。
  大衆の自由意志による統合は、諸国民の全世界連合を基礎としながら、諸国民はそれぞれ自分の言語や風習をも保ち続けるでしょう。しかも世界的な新しい文明が築かれる時が来たという確信を抱いて。
  私たち人間は違う点よりは互いに似たところの方が多いということ、また世界の統合は、人々が共通に持っているものに基づくべきだということには、疑問の余地がはありません。そこで統合のための行動は、差異を拡大しようと努めている民族主義の行動とは逆のものであるべきです。
  権力を持った民族主義は、集中的な政治権力によって画一性を強制します。少数民族の民族主義は、中央集権的な権力に対しては差異を際立たせる形で対立し反発しますが、ロマン的な理想主義に似ていて、未来よりは過去の方に目を向けがちです。この態度は、例えば封建主義のような、すでに過去のものとなった社会状況へと社会を退行させます。戦争の放棄、経済的な連帯、世界規模の自然保護のような現代の諸問題は、そのような姑息な手段によっては解決しません。過去の時代は未開だからです。
確かに、私たち人間は各自のアイデンティティ−を保ちたいと考えています。つまり自分の人格を広げようとしますが、人間の人格は常に個人的なものです。自分が属する種族や社会階層や国籍や共通の信仰などというアイデンティティ−は、実際はアイデンティティ−などではなくて、自分がある特定のグループに属していることを示しているにすぎません。
  文明の進化ということを考えると、およそ1万年前の新石器時代に文明が発生した時から、現代の国家や民族におきているのと同じように、種族の混交や歴史上の種々の事件、特に様々な戦争によって諸国民の形成や分離がもたらされたことがわかります。つまり、国家や国民は1万年前には存在しなかったのです。
  孤立が種々の国民を創り出し、戦線が民族的所属を創り出し、様々な言語は政治権力の中心が移り代わるのにつれて繁栄したり衰退したりして、民族という概念もこの1万年の間に著しく変わりました。これから1万年後には世界に何がおきるでしょうか。もし人間が現在の自分の生き方を変えないならば、科学や技術の繁栄そのものが、おそらく人類を滅亡させるでしょう。歴史の偶然の展開が、世界規模の人間と人類の諸問題を人間的に解決することはできません。そこで、人間は意識的に新しい文明を築くべきであって、その活動のためにZは働いたのでした。そのためには、他のあらゆる言語をなくすことなしに、一つの共通の言語であるEと、また他のそれぞれの風習や宗教をなくすことなしに、一つの共通の倫理であるホマラニスモと、さらにそれに加えて、無論Zが予見しなかったあるもの、つまり一つの世界組織とが必要なのです。その組織は機能的で民主的な国際連合かもしれないし、例えばそれと共存する世界的規模に成長した「ヨーロッパ通商共同体」(Europa Komuna Merkato)かもしれません。そのような種々の統合に加わることがE普及運動の固有の活動であり、それは意識的組織による世界の統合を強く促進するための内在思想、つまりホマラニスモを持った活動です。この活動は夢のような理想主義ではなくて、新しい文明を採り入れるために必要な理想主義です。世界で最初の原子爆弾の炸裂は、一つの文明の時代が終ったことを示しましたが、同時にまた世界規模の連帯性で結ばれた新しい文明を意志によって築き上げることが必要だということを示した事件でした。
                                          (この章は山口美智雄訳)

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