第8章 精神運動としてのエスペラント普及運動
                                                                (この章は中村大真訳)

1. 理想主義

 ザメンホフ(Z)のE普及運動はまさに理想主義です。Zは、第2回世界大会(1906年)での演説の中の、実際には朗読されなかった最後の部分で、E普及運動を次のように説明しています。《民族間の友愛という理想のために、私たちは絶えず奮闘しようではありませんか。私たちの歌“La Espero”にもある通り――人類の美しい夢が永遠の祝福として実現する日まで》
 このE普及運動の理想を、次の二つの視点から分析してみましょう。第一に、この理想は、単に正義であり善である点はもちろんとしても、実際に導入できそうかどうか。第二に、この理想を普及させる手段として、国際語がふさわしいかどうか。
 まず第一の点については、この理想は単に達成するだけの価値があるのみならず、何としても達成しなければならない理想だということは明らかです。
 私たちの文明は、物質的な面では、全世界的な統合に向かっています。それは物質的決定論によってです。しかし精神的な面での統合が遅れています。人間自身が持っている古い考え方は急には変わらないからです。
 現代人の一般的な考え方は、これまでの歴史の発展の諸段階にはふさわしかったのでした。しかし、これから先、よりよい未来を築くための歴史の流れには不適当です。政治権力や利害闘争を通じて、漫然と将来に向かうのでは、個人的、民族的な利害であれ、あるいは階級的な利害であれ、それが先を見とおす力がないために、昔の段階への逆戻りや社会の破滅をもたらすだけです。民族主義や階級の利害などの目先の利害は、利己的な利害です。そんなものを通して、よりよい社会を築けるはずがありません。また物質的決定論も、人類の自由で平和的な望ましい統合をもたらしません。党派的な利害によって人類を統合するには、力ずくでするしかありません。必ず独裁や全体主義を生むことになります。そうではなくて、自由意思によって個人や民族を統合するには、深くて誰にも共通する統合への意志がなければなりません。この皆に共通する意志とは、理想に触発されて、世界的な意識改革によって普及しつつある、新しい感覚のことです。
 次に第二の点については、まず先に「はたして人間は、自分たちの意思で、よりよい社会に変えることができるのか?」という疑問について考えてみましょう。この地球上に暮らしている無数の生き物の中で、人間という種族だけが、本能的条件付けだけによるのではなしに、精神面でも条件づけられた社会に生きているといえます。人間を社会と結びつけるものは、人間の精神の中にあります。つまり慣習や一般的な考え方や精神のあり方といったものです。人間は生まれながらにして、それらを社会から受け継いでいます。新しい全世界的な社会を目指して準備するには、何よりもまず精神のあり方を変えることです。それは理想主義と直接結びついています。
 世界中に新しい状況がもたらされている原子力時代の現代は、思想的運動によって社会の構造を変えることが可能な時代です。可能であるばかりでなく、そうしなければならないのです。
 では第二の点に答えましょう。E普及運動の理想は世界中で実現されなければ意味がありませんから、世界中で皆が行動しない限り、この理想を達成することはできません。全世界を視野に入れて世界中で行動するには、行動のための道具が必要です。その道具は厳密に中立でなくてはなりません。民族的にも宗教的にも中立で、帝国主義と無縁で、そして何よりもまず、党派に関係する政治思想や政治権力から中立でなければなりません。“La Espero”の理想は、特定の利害を代表する利己主義であってはならず、すべての利害を超えたものであるべきです。この理想は全人類のための理想です。未だかつて経験したことのない新しい平和の時代を、新しい感覚によってもたらすための理想です。強大な国家に属する言語は、その国家の利害と結びついているので、その言語を使ってこの新しい感覚を広めることはできません。ですから、すべての人々のための、人類のための新しい声であるEを使って、この新しい感覚をもたらすべきです。

2. 理想主義の条件

 理想という言葉をPIV(「イラスト入りエスペラント大辞典」)で引くと、次のように出ています。 1.「最も完全であり、頭に思い描くことはできるが、完全には達成できないもの 」 2.「最も崇高な目標として掲げて、それに向かって奮闘するところのもの」

 ですから理想や完全性への探求である理想主義とは、奮闘することであって、単なる夢想とは違います。夢想をPIVで引くと、「ある願望について心の中にいだく想像物、心像」と出ています。

 理想主義について考察を進める前に、まず理想主義と夢想との違いをおさえておくのがよいでしょう。理想主義は完全には達成できない完全性への奮闘ですが、単に結果として達成できないから理想だというのではありません。その理想へと接近できることが理想主義の条件です。一方、夢想というのは、いつまでも実現不可能な願望のままでいることを指します。この意味で、世間で理想と呼ばれているものの多くは、実は単なる夢想に過ぎないのです。
 E普及運動は真の意味において理想主義といえます。困難で苦労を伴いますが、しかし実現できるからです。人間の相互理解や世界平和を提案することは、単なる夢想ではありません。なぜならこれは、世界平和を組織するための人間の意志と行動にかかっているからです。しかし、平和と不和の要因を分析しない、夢のような平和への憧れは、夢想の世界に属するものです。ですから大切なことは、単に夢想するのではなくて、行動によって奮闘しなければならない、ということです。
 歴史の発展はかなりの程度まで決定論的ですが、しかしそれがすべてではありません。カール=マルクスは自分の史的唯物論の中で、社会進歩の主要な要因として唯物論的決定論を位置付けました。もしそれが正しければ、社会を良くしようとする人間の行為はいかなるものであれ無意味になるでしょう。他方、決定論の対極にいるのが観念論者たちです。夢想を理想のように扱い、すべての理想は到達可能であり、努力なくして夢想するだけで実現できるとさえ考えます。
 理想への到達可能性は、その時代によって限界があります。原始社会においては、理想への到達可能性はほとんどありませんでした。社会が文化的になり意識が目覚めるにつれて、社会を完全な方向に向けて変えていく行動の可能性の幅は広がります。社会が文化的で意識的な人々で構成され、世論が理想を望ましく達成可能なものとして受け入れ、そして個人や集団がそれぞれの役割を果たすべく意識的に行動するならば、既にその理想は達成されつつあるのです。
 Eの理想主義も、世界的な世論と意識の形成によって、必ず到達可能です。平和と人間の相互理解についての世論を精神的に醸成するために、言語は本質的な役割を果たします。この理想主義の必要性を確信させる議論は、今日では極めて重要な意味を持っています。いま人類は、統合された人類共同体をつくり上げるか、さもなくば科学技術の発展によって自滅し、地球上の生命すべてを滅ぼすか、その瀬戸際に立っています。
 現在の科学技術の加速度的な発展がこの後100年、200年、300年、1000年続くとは考えられません。その前に人類は、世界平和と経済的統合と環境保護を選ぶか、さもなくば文明の壊滅を選ぶかの、厳しい選択を迫られることになるでしょう。人類の諸問題は既に全世界的規模になっており、その解決は全世界的に行わなければなりません。しかし大多数の人々は、この事実に気づいていないか、気がついてはいても行動に移さないか、それとも人類の諸問題の解決という仕事に自分が参加する責務を感じないかのいずれかです。この仕事はたいてい、個人とは関係ないと思われています。ですから未来のためになすべき努力は、人間の責務という道義的な性格を帯びています。
 理想をどこまで実現できるかは、ひとえに個人的、集団的な意識と意志にかかっていますし、さらに理想を実社会で実現しようとする人間の行動にかかっています。積極的な理想主義とは行動です。消極的な理想主義は夢想の国に属します。

3. 歴史の発展

 歴史の発展は非常に複雑です。さまざまな要因、往々にして後ろ向きの要因に左右されるし、偶然によってさえも左右されます。社会が原始的であればあるほど、非意識的な要因に左右されます。将来への進むべき道を意識しない無文字社会と比べれば、知的な社会はもっとうまく発展の道を歩むことができます。意識的な社会は、人間の間の生存競争を和らげて、競争を協力に変える方向で、かなりの程度まで未来を準備することができます。
 意識を持たない太古の動物から生まれた人間という種族は、意識を持つことによって野蛮な動物から人間になりました。しかし個人としての人間に意識の発展があったとしても、それだけでは、まだ充分に社会の発展と未来への前進を制御することはできません。この意識改革は、文化と文明における意味での人類の向上を代表するものでなければなりません。
 かつては戦争が、国家と民族に関係する主要な歴史的要因でした。しかし科学技術の発達による文明の進歩によって、今日では戦争という要因はもはや有効ではなくなりつつあります。なぜなら、原子力や核エネルギーを戦争に使えば、文明を破壊するだけでなく、地球上の生命を絶滅させるかもしれないからです。戦争と暴力革命の二つの様相を持つ、暴力まかせの競争時代は終わりました。協力にもとづく意識的要因によって、歴史の進展を人間自身が制御する時代になったのです。科学技術の繁栄は、社会的な面での全世界的規模での繁栄と一緒になって、車の両輪にならなければなりません。生存競争という意識していない要因は、意識という人間固有の要因へと置き替えられねばなりません。競争は協力に変わるべきです。このことは人類の存続にも関わります。今日の特別な状況下にある人類は、解決の方策を見つけなければなりません。単に理想主義者だけの問題ではなくて、すべての人間の責務です。これは国連の「人権宣言」と対をなす道義的責務の問題です。普遍的人権は、人種や出身や性別などに関わらず、すべての人に生まれながらにして認められます。統合性と多様性に基づく新しい世界文明を準備するための行動は、人間相互の「義務宣言」として出されるべき枠組みで、すべての人の倫理的前提とならなければなりません。
 この世に生まれた人間はすべて、よい点も悪い点をも含めて、その社会を受け継ぎます。社会を良くしようとする努力、つまりより良い社会を未来の子孫に受け継がせようとする努力は、より良い社会を私たちが享受する権利を与えます。正義や不正義は、社会によって、また歴史上の各段階において、相対的なものです。
 偶然や生存競争以外にも、物質的条件も確かに社会の発展に影響を与えます。しかし物質的条件は、意識していないからこそ激しいものです。戦争や暴力革命も確かにありました。しかし文明の段階を上っていくことは、意識的要因が無意識的要因にとって代わることです。人類の進歩は、ひとえに人間の意識の進歩にかかっています。人間の意識には二つの側面があります。個々人の個人的な意識と、集団的、社会的な意識とです。集団的な規模での意識的行動とはすなわち精神運動のことに他なりません。

4. 精神運動

 考察を簡単にするために、ここではヨーロッパで発展した精神運動に焦点を絞ります。ヨーロッパで普及に成功した最初の普遍的な精神運動は、キリスト教です。古代ローマの衰退期には、キリスト教に代表されるように、思想の変化が現れました。これが宗教の形をとっていることは、当時の世間一般の精神のあり方を示しています。キリスト教は本質的に次の三つの概念を含んでいます。第一に、人間は誰でも一組の同じ夫婦から生まれた子孫だから、人類は一つであるということ。第二に、人間は誰でも、神の前では等しく貧富の差や権力によらず、自分の行いに対して責任を負うということ。第三に、隣人愛や隣人との協力、ということです。
 キリスト教が変えたこの精神から、今日の民主主義や社会主義という概念さえも出てきました。旧弊で停滞していた教会への反動としてかもしれませんが。コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認してから、キリスト教の持つ特別なメッセージ性が薄れたのは確かですが、でも多くの人々の心に与えた影響はなくなりません。
 ヨーロッパの歴史を見れば、精神運動が社会の進歩に与えた影響がわかります。特に人文主義、ルネサンス(文芸復興)、啓蒙主義、ロマン主義の名が挙げられます。またマルクス主義も、精神のあり方の変革をもたらした点では、この中に含まれます。
 個々の時代において、大部分の人々は似た考えを持ち、それに基いて判断を行います。倫理的な面では、建前と実際の行動とが一致しないことも多いのです。
 おおまかに言って、ヨーロッパでは三つの大革命がおき、社会機構はもちろん人間の精神をも大きく変えました。三大革命とは、キリスト教、資本主義と結びついたフランス革命、そして共産主義と結びついたマルクス主義革命です。しかしこれらの三つの革命は、既にその最盛期を過ぎて停滞し、新しい文明への道を切り拓く力はもはや持っていません。統合と多様性に基いて人類を統合する平和主義者の革命は、平和革命であって、それには平和と自由のための世界的組織を打ち立てる土台となる、人類の道義的な統合が必要です。
 社会的世界的な組織を建設する土台となる精神の集団的変化を刺激するための、今後の精神運動について考えると、Eという言語と、その内在思想ないしホマラニスモという、二つの提案からなるZの思想に、私たちは賛成します。新しい世界文明をもたらす能力のある、精神運動としてのE普及運動の重要性は、当代の第一の計画とすべきものです。
“La Espero”の詩句は、もはや空疎な単なる歌ではなくて、新しい文明のための精神運動を運ぶ行列を先導する、新平和革命のたいまつとなるのです。

5. 空論ではなく行動する現実主義者たれ

 Zは第2回世界大会の開会演説で次のように言いました。「ある種の人々が考えているほど私たちは世間知らずではありません。中立な土台が人々を天使に変えるなどとは考えていません。悪人はいつまでたっても悪人のままであることもよくわかっています。しかし私たちは少なくとも、中立な土台に基づく対話や交流が、悪意による暴力や罪は取り除けないとしても、無知や思い込みに起因する数多くの暴力や罪を取り除くことを確信しています。」
 確かに、単に共存して同じ言語を使うだけでは、寛容や相互理解や統合が生まれるとは限らないことは、歴史をそれほどよく調べなくてもすぐにわかります。
 中南米ではスペイン語とブラジル=ポルトガル語の2言語だけが使われています。しかし、スペイン語を話す民族の間で連帯的統合をはかろうということにはなりません。逆に、スペイン語を話す国々では、スペインの植民地支配から独立したすぐ後、19世紀、そして20世紀になってからも、民族間の戦争、さらに一国内での市民戦争も次々とおきました。 ですからEがその言語面だけで人類を統合できると考えるならば、それは幻想に過ぎません。将来Eが人類統合の手段となるときには、それは言語そのものによるのではなく、精神運動として内在している、この言語の持つ思想性によります。
 今日でもEの内在思想は依然として霧に包まれたままであり、しかもホマラニスモともかけ離れています。Zが“Deklaracio pri Homaranismo”(ホマラニスモについての宣言)を発表してから、内在思想もホマラニスモも、次なる発展がなく停滞しています。
 宗教の多様性は、今日ではもはや人間の間を引き裂く主要な要因ではなくなりました(例外として、イスラム教の各宗派は互いに争っていますが)。宗教の橋渡しは、今日の一般的な無宗教的傾向のもとでは必ずしも必要ではありません。Zもボーフロンに宛てた公開書簡の中で、ホマラニスモについて次のように語っている(Ruslanda Esperantisto,1906,N-ro 6-7,Ludovikito, kajero 7, p.348)ことに注意しましょう。「国際語は民族間の中立的な橋渡しを「言語」面で目指しています。一方ホマラニスモは「すべての」関係における民族間の橋渡しを目指します。ホマラニスモはE普及運動を強めたものに過ぎません。ホマラニスモについて明確には言いたがらない人もいますが、ホマラニスモはすべての人が願っていることなのです。」(1906年6〜7番――pvz(Z全集)第7巻314頁)
 宗教闘争は現在では政治的社会的な闘争によってとって代わられました。例えば資本主義と共産主義の対立です。ですから今日必要な「橋渡し」は、資本主義と共産主義の対立を和らげる橋渡しです。資本主義も共産主義も同じ文明に属し、両方ともヨーロッパで始まったものです。ですから両者は平和的に共存できるはずです。宗教改革がもたらした地獄のような宗教戦争を経て、現在ではカトリックとプロテスタントが平和的に共存しているという先例もあります。
 E普及運動において大切なことは行動であり、Zも次のように述べています。「個々の真の宗教者、人道主義者、フリーメーソン会員は、単なる夢想者の集団から、ホマラニスモを通じて、実現者の集団へと移行するのです」(pvz第7巻314頁)
 こうした説明を通じて、私たちは言語としてのEにおける行動と、同時に内在思想を実現するための行動の、核心に到達します。
 内在思想ないしホマラニスモを、国民国家を超え、また、さまざまな社会体制や政治体制を超えて、思想の自由が存在する政治体制下であっても、独裁体制下であっても、全世界に広げなければなりません。相互理解と連帯と世界規模の平和のメッセージを、地球上の隅々にまで届かせなければなりません。そのことによって、Eという言語が役立つことが人々に理解されます。共通の交流手段がなければ、世界中にこの精神を伝えることはできません。またこの目的のためには、どの民族語も中立性を備えていないので、ふさわしくありません。ある程度は中立と思われる「狭い」言語は、それ自身では力のないものであり、また複雑で容易に学習できないので、民族を超える言語として推薦するにはふさわしくありません。また最も多く使われている英米語、ロシア語、中国語ないし日本語は、大国の政治力の下での世界統一を意味しているので、やはり道義的に人類を統合するためのものとしてはふさわしくありません。
 平和と相互理解の精神を世界中に普及させるために、中立で誰でも学習容易な言語が今こそ必要とされています。大きな宗教や近代の精神運動と同様に、平和と相互理解の精神を普及させなければなりません。すなわち、ヨーロッパにおけるキリスト教、インドにおける仏教、中国における儒教、アジアやアフリカにおけるイスラム教のようにです。ただし、イスラム教は本質的に平和主義的ではありませんが。また精神運動としての人道主義、ルネサンス、啓蒙主義、ロマン主義、マルクス主義と同様にです。ただしマルクス主義は唯物論的な精神運動ですが。
 宗教と同じように精神運動も人々の精神を変える運動です。それは普遍的な新しい感覚を創ることであって、新しい知的な生きた考え方を創るのです。
 科学の発展した今日では、宗教運動はもはやふさわしくありませんが、精神運動がその役割を代りに勤めることができます。それは全世界の巨大な社会へ個々の人々を統合するための、道義的で社会的な土台という役割です。この精神のありかたの変化は、人々の間の交流を通じておこすより他にありません。キリスト教の伝道者と同じように、私たちは新しい感覚の種を蒔くのです。声によって、出版物によって、あるいは広く人道的な文学によって蒔くのです。また言論の自由のある国々と同様に、言論の自由がなくて検閲のある独裁体制の国々においても蒔かなければなりません。その場合は個人間の文通が威力を発揮します。
 世界各地に点在する、確信をもった人々は、交流の網の目によって意見を交換し、事実を知らせあうことによって、少しずつ人々の精神のあり方を変えていきます。それは世界平和、経済発展、環境保護、人類の連帯のための組織、そして自由のための世界的組織を建設する土台となる 社会的要因を作り出します。自由と連帯とに基づく人類の統合をつくり出すには、世界的な精神運動、つまり広がりつつある新しい感覚によるしかありません。Zの考えによれば、それはEという言語とその内在思想またはホマラニスモによるしかないのです。

6. 新しい感覚

 “La Espero”の最初の詩句は《世界の中へ新しい感覚が来た》となっています。Zはこの新しい感覚をE運動の中に息吹かせたのです。Zは1905年の第1回世界大会の大会演説で次のように述べています。「人類が真に兄弟となるために捧げられる多くの仕事が、まもなくこの大会から始まります」(OV365頁)
 翌1906年のジュネーブでの第2回世界大会で、Zは次のように述べました。「しかし私たちの運動を実り多いものにするには、なによりもまず、E普及運動の内在思想とは何かを、明確に表わさなければなりません。私たちはみな無意識のうちに、この内在思想をほのめかす形で語ったり書いたりしてきました。しかし明瞭な形では、一度も語ったことがありません。今こそ私たちは、明瞭でかつ正確な形で表わすべきときです。」 しかし実際にはZはこの大会で、内在思想を明確に表明することはできませんでした。なぜかというと、この第2回世界大会の組織委員会は、神に関するZの次のような考えを受け入れられなかったからです。「神という言葉を私が使うとき、この神秘的で最高の力を、私は次のように理解します。神とは世界を支配するものであって、その本質は、すなわち敬虔な人にとっては、その人自身を教会へ向けさせるもの、また自由思想家にとっては、その人自身を自分の智恵と心へ向けさせるもの、というようにです。」
 ジャヴァル(Javal)の忠告に従って、Zは大会演説の第2部を読みあげなかったのは確かですが、同時にZがこの大会に参加しなければならなかったのも事実です。それは彼の健康状態が悪いことを理由としたジャヴァルへの1906年8月20日の手紙に出ています(PVZ第7巻360頁)。Zは、Eの本質と中立性に関する前年のブローニュ宣言に沿って決議文を作った大会組織委員会と自分の立場とが一致しないことを感じていました。大会組織委員長のセベール(Sebert)将軍はこの決議文“Delkaracio pri Neuxtraleco de la Kongreso de Esperanto”(E大会の中立性に関する宣言)に対する賛成を全参加者から得ていました。この決議の特異な点は、ボールトン(Marjorie Boulton)著“Zamenhof”の137頁から引用すれば、「この大会の組織委員たちは、大会プログラムから政治問題や宗教問題や社会問題に関する議論を禁止するために、この件について問い合わせてくるすべての人に対して、この条件を周知徹底させました。これはZ自身の要請に沿ったものでした。大会組織委員長は、上にあげたようなテーマを扱いたい人々向けの演説を拒否しなければなりませんでしたし、また演説者がこのような禁止された分野に触れようものなら中断させなければなりませんでした。」 こうしてEの内在思想ないしホマラニスモについての明確な説明は封じられてしまったのです。フランスの将軍セベールにとってZの理想は理解不能でした。
 Zの神秘思想は必ずしもエスペランティストの支持を集めることができず、特に組織委員や学者の反対にあいました。そこでZはE普及運動とは別にホマラニスモの運動を計画しましたが、第1次世界大戦の勃発によって、ホマラニスモは誕生する前に頓挫してしまいました。
 クラクフでの第8回世界大会の時ですらも、Zは内在思想について次のように語っています。「Eの思想の本質が何であるか、また中立で人種言語的基礎に基づく相互理解が人類をどのような将来へ導くのかは、人によって形や程度の違いこそあれ、私たちみんながよく感じていることです。今それをあえて理論的な説明で汚すことなく、暗黙の、荘厳で奥深い感覚にまかせておくことにしようではありませんか。」(OV411頁)
 ミショー(Michaux)への1904年9月26日の手紙の中で、つまり第1回世界大会より前のことですが、Zは新しい感覚を次のように定義しています。「大会は効果的に「感覚」に働きかけ、出来る限り大きくて忘れがたい「印象」を与えなければなりません。荘厳さ、音楽、聴覚効果をふんだんに使いましょう。感覚効果が大きければ大きいほど、大会もそして我々の運動も、世界中でよく知られるようになるでしょう。そのような手段を使わざるを得ないのは残念ではあります。しかし人間の本性は、人は乾いた説明より感覚によって動くものです。乾いた説明では他人に確信を持たせることはできません。国際的な兄弟愛による友人たちが世界中から毎年喜んで参加する大会にするために、荘厳さと美しさによって、大会を熱い宗教的な中心にしましょう。」(pvz(ザメンホフ全集)第6巻170頁)
 Zが考えた内在思想は、明らかに神秘的な性格を持っています。大会を荘厳さと美しさによって熱い宗教的な中心にするということは、神秘的な性格をよく表しています。
 Zが述べたように、人間の本性は確かにそのようなものです。今日まで、すべての民衆は自分の宗教を持ってきました。宗教は儀式を通じて人間を印象付けてきました。人間は母性本能を除いては他人を省みるより自己中心的な本能の方が強いという本性を持っているけれども、人間はそうした本性を抑えて、単なる家族生活よりも広い社会的な生活を営むことができるのだと。
 宗教だけでなく、ほとんどすべての思想もまた、同じように人間を印象付けてきました。例えば近代のナショナリズムを見てみましょう。フランス革命から現在に至るまで、ナショナリズムが原因かつ目的で、人間は戦争し、殺し殺されてきました。戦時においては自分の命を捧げるべきだとすら信じ込まされました。政治家の扇情的な大演説や軍事パレードや鼓舞音楽によってです。民主的な投票制度を見ても、政治的宣伝、標語、政治家の顔写真などの方が、詳細な調査や経済や行政についてのまじめな議論よりも、感情に訴える力が大きいことがわかります。乾いた説明では他人に確信を持たせることはできないというZの意見は確かに正しいのです。けれども、国際語によってそのような感情的宣伝をするだけで、世界平和をもたらす全世界的精神を創造することができるでしょうか。いいえ、それだけでは決してできません! キリスト教は人間の内面と人間間の平和を説きましたが、自称キリスト教徒たちはお互いに戦争を繰り返しました。E普及運動には、キリスト教はじめ宗教が説く平和を実現するだけの力があるでしょうか? 恐らくありません! E普及運動が誕生した後でも、第1次世界大戦と第2次世界大戦がおきました。そして第3次世界大戦もおきかねない状況です。第3次世界大戦が当面しばらくおきないなら、それはエスペランティストの行動のおかげです。情熱的な本性のために人々は世界主義より小さなナショナリズムを守るように見えます。新しい感覚が全世界的に大衆に普及することは充分ありうることですが、しかしその場合でも、行動的なE普及運動はそれほど速く強力には大衆に受け入れられず、今日第3次世界大戦の勃発を防ぐことはできません。

7. それでもこの新しい感覚は不可欠

 それでもこの新しい感覚は、人類を統合し平和をもたらす他の要因よりも大切です。ただし、この新しい感覚は、単に神秘性に基づくものであってはなりません。もともと神秘性は無知から生まれます。ですから大規模な儀式や、現代ではデマによって、神秘性を人々に植え付けることができます。民衆の大部分が読み書きができないか、または一応できても知的な営みの意味での読み書きができない時代においては、それはたやすいことでした。しかし科学的精神の普及した文化的な社会では、神秘性の影響力は小さくなりました。今日文化の高い国々では宗教は精神の礎ではなくなってきており、新たな神秘主義が世界中に広がる可能性は薄いと思われます。
 私たちは、神秘性に頼るよりも、個人的な意識改革、そして同時に集団的社会的な意識改革によって、民族性を超えたEを通じて、新しい文明を創造しようではありませんか。  人間の精神に与える影響は、神秘的な太古の本能を呼び覚ますことによるより、教育と文化による影響の方がずっと大きいのです。精神的な観点からいうと、学校で生徒に技術を教えるのと同時に、精神面での教育をしなければなりません。新しい感覚とは、今日でも将来でも、受動的な神秘性によるのではなく、教育的で意識的な営みです。
 言語と内在思想の二つの側面を持つE普及運動は、今日では、教育の問題、意識改革の問題、夢想ではなく責務の確信の問題に属します。責務とは個人的であると同時に集団的な責務であって、平和と連帯による新しい文明を建設する責務です。この道か、さもなくば自滅への道か、人類には二つに一つの選択しかありません。精神運動としての世界規模でのこの意識改革が、E普及運動の今日の主要な任務なのです。
                                        (この章は中村大真訳)

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