第7章 私たちの文明の現状       (この章は藤巻謙一訳)

1. 物質文明

 コロンブスがアメリカ大陸を発見し、Canoのセバスチャンが世界一周を達成した時から始まったこの時代は、現代が最高潮に達していると言えるでしょう。その時までは、地球が球形で世界には果てがあると思っていたのは、ほんのひとにぎりの知識人に過ぎませんでした。一般に受けいられていたのは,地球は平らで果てがなく、地下には火が燃えていて、ガラスのようなものでできた空にはあちこちに松明が燃えている、というようなものでした。 その当時は、実際に、世界はいろいろな文明に分断されていました。それぞれの文明は似たような発達の過程をへて当時の状態に達したのでしょうけれども。ヨーロッパやインド,東アジア,そしてアメリカには、ほぼ同じ段階に達した別々の文明が栄えていました。アフリカの現地人や、アマゾン川流域のアメリカインデアンと呼ばれた原住民、そしてオーストラリアに住んでいる人々は、まだ未発達段階の文明に留まっていました。
 おおざっぱに言って、今から5世紀前、文明がある程度発展したときに、初めて人類は地球が球形であり世界の大きさには限りがあると認識したといえます。もしもその当時ヨーロッパの文明が発達していなかったら、アメリカを発見して世界一周を成し遂げたのは、おそらく中国人になったでしょう。でも、その発見者がたとえヨーロッパ人ではなくて、中国人だったとしても、征服と被征服、支配と被支配に基づく文明の発展は同じような過程をたどったにちがいありません。ヨーロッパは、ちょうど封建制度を脱したところでした。日本や中国、インドは、まだ封建制度のもとにありました。帝国が成立する過程は、世界中どこでも同じです。コロンブスが発見した以前のアメリカにもありました。マヤ帝国やアスティカ帝国も、支配被支配の関係に基づくものでした。人々が自由な状態にあるのは、原始的な部族の段階にとどまっている所だけです。人間の文明の発達がこういう経過をたどることは だれにでもわかります。文明の発展は偶然と生存競争に基づくもので、なんらかの意識的なものによって導かれているのではありません。
 アメリカの発見と世界一周の達成で始まるこの世界文明は、もう成長の最高点に達してしまいました。今や世界中で、物質的な点では、文明はもうどこでも均質になっています。復古を主張するイスラム原理主義アラブ人たちでさえ、今では最も現代的な武器を使って戦争をしています。高い生活水準や産業の発達、都市生活というものが、あこがれの対象となっています。どこの人々も、物質的な意味での文明に憧れているのです。
 コミュニケーションの手段の発達によって、一つのものと感じられるほどに地球が小さくなりました。過去から受け継がれたいろいろな社会的な枠の中での一つの地球ということです。これが現代の世界文明の現状であり、またその末期的な状態なのです。

2. 道徳

物質的な観点からすれば,私たちの文明はもう統一された状態にあると言えます。科学的な観点からも統一されていると言えます。科学というものはその性質上、必然的に統一されているのです。数学的真実は、だれにでも、どこででも通用します。化学や物理学の法則も同じです。科学者の意見が一致しないのは、宇宙学の分野とか、深遠な科学理論の点だけです。科学はニュートンの万有引力の法則からアインシュタインの理論へと進みました。通常の概念である「空間と時間」から「時空連続体」へと達しました。しかしこういう議論は高い知識の持ち主の間だけのもので、化学や物理の理論の宗教的解釈というのは、もはや行われていません。発生当時とは違って、今日では、いろいろな概念に基づいた多様な科学というものは、もう存在していません。しかし倫理概念や政治思想については、統一というものがないのです。宗教にはいろいろあります。源はキリスト教、回教、仏教などにたどれるものの、科学とは違って、いろいろな教派や宗派が統一した教義体系を目指して進むということはありませんでした。Zのホマラニスモは、神秘主義的な根源をもつ道徳的な教義体系だと言えます。しかし、このも、あるいはほかのどの新興宗教も、道徳的な神秘主義で人類を統一するほどには広まっていません。信仰ではなくて、教義体系だけを見れば、バハイ教がホマラニスモに似ています。しかしこれも、広まることができませんでした。
 今日、宗教心はたいへん薄れています。そしてそれと同時に、行動を律する道徳規範も薄れてしまいました。精神的なものよりも物質的なものが重視されています。宗教は、それぞれの宗派の枠の中で人々を統一しました。しかし、こういう物質主義には人間を統一する精神的な力が欠けているので、社会を分裂に導きます。こういう点で、Eの内在思想とZのホマラニスモとは役割を果たせるでしょう。しかし、発表から100年が過ぎた今も、E運動はまだそれほど強くはなく、歴史を動かす要素になるほどには広まっていません。
 政治的な観点からも、そして社会的な観点からも、現在の世界は統一されていません。政治思想や社会思想は,まだ科学といえるレベルには達していないのです。これらの思想は興味や熱情によって左右されるのです。いま世界の半分はマルクス主義の影響のもとにあり,残りの半分は資本主義の影響下にあります。一般的に,社会のありかたとして,民主主義が最も良いものだと考えられています。多くの人が政治的な民主主義から経済的民主主義への、よりいっそうの進展を願っています。しかし宗教的な懐疑主義と同じく、政治的な懐疑主義も広がっているのです。
 政治理論や政治活動には、まだ狂信的なものが残っています。また同時に、自分の利害に直接関係のないもには関心を示さないという態度も広がりつつあります。自分には直接関係のないことや将来のことを考えるのは、ほんのわずかな人々だけです。大国でも小国でも民族主義がまだ幅をきかせています。また、まだ国家を持たない少数民族の民族主義も生まれつつあります。
 たしかに民族主義は、分裂した封建主義の社会を民族国家の枠の中に統一しました。しかし今日では、かって封建主義が担っていたのと同じ役割を、民族主義が担っています。世界全体をつつむ民族主義というようなものはまだ生まれていませんし、今日の民族主義はお互いに対立していて、社会を分裂させる要因となっています。物質的な面と科学的な面では統一されたものの、道徳や政治的な面での統一は、まだ遠くにあるようです。世界市民という概念は、まだ少数の人々のあいだの願望という状態に留まっています。

3. 組織

 文明の発達過程をよく知るためには、社会組織の発達についてもよく知らなければならりません。「人間」という動物の生理学的発達でも文明社会の発達でも、組織の形態が到達段階の指標になります。
 人間を組み立てている細胞の生理学的複合体は、自然の命じるままに発達を続けていますが、人間が哺乳類の中でも最も高度なものであることを示しています。また、人間が知性をもつ唯一の存在だということを示しています。社会的な組織に対しては、自然はそれほど大きな影響を与えません。いろいろな社会的な組織は文化の領域にかかわるものです。自然は、私たちに社会的組織を与えてくれはしません。たぶん数千年ものあいだ人間は30人前後の小さなグループで行動し、定住せず、狩りをしたり、木の実を採集したりして暮らしていたのでしょう。数が少なかったので、この時代の人間たちは、国家も作らず戦争もしなかったと思われます。人口密度が高くなると、こういうグループが互いに競争することになりました。そして戦争が発生し、社会的な組織が生まれたのです。およそ一万年にわたる人間社会の発達を特徴づけるものは、国家の成立や、くり返される戦争、支配者と被支配者とへの社会の階級分化です。人口が増えるにつれて、社会は、部族やクラン、フラトリオ(氏族)、民族のような原始的なグループから、封建社会へ、そして民族国家や帝国へと拡大していったのです。こういう事実から,組織という要素が人間社会の発展に大きな役割をはたしていることがわかります。
 今世紀に私たちは二つの世界戦争を経験しました。しかしその結果、世界的な組織が発生するということはありませんでした。発生したのは、アメリカ合州国とソビエト連邦に代表される世界の二極化です。歴史の動向にしたがえば、この二つのうちのどちらかが勝利をおさめ、ただ一つの世界的な帝国が築かれることになるかもしれません。どちらの陣営も、そうなってこそ世界平和がやってくると考えています。しかしその考えは奇妙です。第一次世界大戦中、戦勝国側は、この戦争が終われば恒久的な平和が来る、そして彼らが戦っているのは平和のためだと宣伝を続けていました。しかし、その恒久平和とやらはやってきませんでした。
 現代の戦争には、核兵器という今までに経験したことのない要素が加わっています。核兵器は人類全部を滅ぼすことさえできます。資本主義も社会主義も、「自分の陣営を防衛するためならば人類を破滅に導いてかまわない」と言えるほど重要な思想ではありません。今や作り手である人間に脅威を与えるほど、科学は発達しました。
 さて、社会組織は科学や技術のような発展を遂げたのでしょうか。まったく発展していません。社会的観点から見ると、組織は戦争の結果決まるという、従来の域をでていません。しかし、部族や氏族、フラトリオや封建制度、小国家のような昔の原始的な段階の組織に戻るなどということはできません。二極化したどちらかの勢力が覇権を得るというのも、良い解決とは言えません。一つの巨大帝国が、世界の残りの大多数を支配するという構造になるからです。一国に支配されるというのは、魅力のある解決でもないし、社会に平和をもたらすものとはいえません。反抗する者がでてくるでしょう。分裂傾向がでてきて、独立国家を作ろうとする暴力的な反抗が広がってくるでしょう。その結果は、建設と破壊のくり返しであり、血まみれの戦争社会の永続です。
 世界的な規模の組織を作ろうという考えは、けっして新しいものではありません。第一次世界大戦後には国際連盟が、そして第二次世界大戦後には国際連合ができました。ヨーロッパには欧州連合に基づいたヨーロッパ経済共同体があり、将来の政治的統一を目指しています。
 欧州連合は経済共同体とともに、なんとか進展しています。国際連合は、どうにか存在してはいますが、死にかけた状態です。国際連合の失敗は、冷戦と米ソ両国の政府に責任があります。一般の人はそういうことにほとんど無関心です。この失敗の中で最も重大なのは、大多数の人々のこういう惰性的な無関心です。こういう惰性を追い払うためには、文化的な活動と政治的な活動とが重要です。
 平和の問題はたいへん複雑です。というのは、戦争が現代の私たちの文明を築いた主な要素だからです。しかし今では、科学の発達により、戦争が人類を滅ぼしかねないものにとなってしまいました。
 平和が現代の主な問題となっています。平和は三つの要素の上に成り立っています。この三つの中のどれかがうまく行かないと、ザメンホフが述べたような平和はなりたちません。つまり、「文明を築いた人間という生き物にこそふさわしい平和、暫定的なものではなくて、恒久の平和」は達成されないでしょう。
 その三つの要素のうちの一つは、物質的な意味での世界の統一ということで、これはすでに達成されています。二番目の要素は、道徳的な問題であって、ホマラニスモに示されるような 人間の道徳的統一ということです。三つ目の要素は、組織で、これに対する取り組みは始まっているものの、まだ達成はされていません。
 政治的に見ると、国際連盟がこういう統一の芽であることは確かです。ヨーロッパ共同市場も、経済的な枠での統一の芽と言えるでしょう。道徳と組織という二つの点に関しては、戦争と平和というこの永遠の問題に解決を与えるために、新しい世界文明を目指して、すべての人が努力しなければなりません。
 組織というのは、特に政治家の活動分野です。もちろん、世界的な組織としてもっともふさわしいのは平等の原理に基づいた連合体です。弾圧者や被弾圧者がいてはなりません。分権的で、地域の問題はその地域で解決し、中央組織はただ平和や自由や経済的公平を、そして私たちの住む地球の自然環境を維持するためにあるべきです。
 道徳的な点こそ、エスペランティストが活動すべき分野です。そしてその方向は、Zの短い詩 ”La Espero(希望)” の中に示されています。    
                                                                   (この章は藤巻謙一訳)

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