第6章 ザメンホフの平和思想と100周年のころの世界情勢                                                   (この章は藤巻謙一訳)

1. ザメンホフの平和思想

 ザメンホフ(Z)が平和について自分の思想を作り上げた頃の世界情勢と,エスペラント(E)が百周年を迎えた1987年の世界情勢とは、同じではありません。大会演説やホマラニスモ宣言、世界人種大会にむけた論文「民族と国際語」(1911年)、また1912年にクラクフで行われた第8回世界大会の演説などはみな、第1次世界大戦前に発表されたものでした。
 Zが亡くなったのは1917年ですが、この恐ろしい世界戦争が彼にどんな影響を与えたのかはわかっていません。
 1915年に書かれた「大戦のあとで…外交官に対して呼びかける」を見ると、Zは間もなく平和が回復するだろうと楽観的に思っていたようです。しかし1915年の時点では、戦争はまだ始まったばかりで、どのように終結するのか、見通しはたっていませんでした。その当時、ロシア革命どころか、ポーランドの独立や、エストニア、ラトビア、リトビアがロシアから独立することや、オーストリア・ハンガリー帝国の分裂などすら、おそらく予想した人は一人もいなかったでしょう。
 Zが「外交官に対する呼びかけ」の中に示した平和思想、つまり、戦争の主な原因を永久に追放しようという考えは、Eの発表から百年を経た今日では、あまりにも単純すぎるように見えます。
 ベルサイユ条約で整えられたヨーロッパの勢力図を見ると、戦勝国は敗戦国に対してZの提案を実行したようにも見えます。バルト三国やオーストリア・ハンガリー帝国の分割は、民族国家の創設という方向に沿っています。もっとも、戦勝国が民族間の対立を解消しようと意図してこれを行ったのではありません。バルト三国の独立はポーランドと共産主義国ソ連の間に「壁」を作るためであり、オーストリア・ハンガリー帝国を分割したのは、戦勝国にとって都合がいいように、中部ヨーロッパの権力をなくすためでした。しかし、あの時に、たとえ、ヨーロッパ全体がこれらの敗戦国のように細かく分けられていたたとしても、平和は長続きしなかったでしょう。Zが「外交官に呼びかける」の中に書いたような「ヨーロッパ連邦」または、「すべてのヨーロッパの国に承認された、全ヨーロッパ常設裁判所」のようなものが設立されていたならば、話はまた別ですが。
 国際連盟が創設されましたが、世界的な組織であるにもかかわらず、まったく無力で、平和を維持するのには役立ちませんでした。ヨーロッパで国家の数が増えたことも平和には貢献しませんでした。新しく生まれた弱小国家は、経済的にたち行かなかったのです。戦勝国が敗戦国に対して行った賠償請求も失敗でした。むしろヨーロッパ共通の市場を創設し、マーシャル・プランのように、ドイツの民主主義を支援すれば平和は長続きしたかもしれません。
 敗戦国ばかりでなく、戦勝国も経済的危機にさらされました。ヒットラーの民族主義、つまりナチズムが 経済的破綻やインフレ、失業問題に乗じて、ドイツで強く支持されました。ベルサイユ条約は、次の戦争の火種をたくさん含んでいたと言えます。第1次世界大戦後たった二十一年で第2次世界大戦が勃発したのです。
 世界的な大規模戦争の原因は、民族間の憎しみなどよりは、もっと深いところにあります。Zが若いころビアウィストクで体験したような 民族間の憎しみの中にあるのではないのです。政府は戦争の本当の原因を意図的に隠そうとするものです。もし本当の原因を知ったら、戦争に命をかけようとする人など、だれもいなくなってしまいます。人々は、愛国主義や、ほかの人種や民族に対する憎しみや、対立をあおる思想をかきたてられ、その結果として殺しあいをするのです。戦争の根源的な原因は生存競争にありますが、そのほかに、拡張主義的帝国主義や、どこから由来したものであれ支配階級の権力闘争、資本主義社会の市場獲得競争、共産主義社会の政治的拡張にも原因があります。そして現代では、世界の主導権をめぐる二つの陣営、つまり社会主義をかかげる共産主義陣営と 自由主義をかかげる資本主義陣営との対立が主な原因となっています。
 こういう状況に基づいて、戦争と平和の問題、Eの役割、そして永続的な平和を実現するために Eの内在思想を考察しなければならないのです。
 
2. 戦争と平和

 症状を知るだけでは病気を治せません。その原因を知る必要があります。戦争についても同じことが言えます。戦争とそれがもたらす結果についてなら、私たちはうんざりするほど知っています。死、空腹、みじめさ、瓦礫の山などなど。勝者にとっては、それほど悲惨なものではないかも知れませんが、それでも、勝ったからと言って心安らかとはいきません。戦勝国は支配者となり、争いと関係のない者までをも苦しめます。戦争がもたらした惨禍からなんとか立ち直って繁栄を築くと、遅かれ早かれまた同盟関係が生まれ、また戦争がおきるのです。これはなにも新しいことではなくて、人間が部族社会を離れて国家というものを形作ってからというもの、ずっとくり返してきたことなのです。長い歴史の中で、いくつもの文明が没落していますが、戦争が原因だったのです。
 新石器時代になって人間の職業がいろいろに分化してから、軍事というものは文明につきものでした。国家が形成され、支配階級としての職業軍人が登場したこと、社会が主人と奴隷、支配者と被支配者とに分化したこと、支配階級内部での権力闘争。これらのことすべてが、単に民族間の憎しみによって戦争がおきるのではないことを示しています。むしろその反対に、民族間の憎しみは、戦争の結果であるといえるでしょう。
 おそらく、戦争の原因としてもっとも主要なものは、生存競争という自然の法則でしょう。人間が社会的な存在になると、競争が、人種と人種のあいだや 個人と個人のあいだのものから、グループ間のものへと変化しました。暴力を伴ったこういう競争は、もう戦争といえるでしょう。構成人数が多く、団結が固いグループほど戦争で勝利しやすくなります。そしてこういうグループから独裁的な国家ができるのです。戦争の原因のもう一つは、人々が孤立して存在することができなくなったということにあるでしょう。戦争は地理的な障壁を乗り越えて広がり、民族やグループの孤立を許しません。戦争が引っ掻き回すので、どの民族もグループも、ずっと同じ状態でとどまることはできません。遅かれ早かれ、歴史の流れの中に巻き込まれてしまうのです。そういうふうにして、 新石器時代の到来からかれこれ一万年ものあいだ、文明は広がり続けてきました。一万年という時間は、人間の一生にくらべれば長いようですが、地理学的に見ればほんの一瞬にすぎません。そしてこの一万年の間に、文明は、孤立した部族や氏族の段階から世界が一つになった現段階へと進んだのです。そして今、私たちは文明の危機に直面しているというわけです。人間は自然を征服して原子力エネルギーを発見しましたが、もしそのエネルギーを戦争に利用すると、地球上の人間を皆殺しにすることさえできるのです。過去の地質時代にたくさんの動物種が滅びましたが、今日では、人間が滅亡の危機にさらされています。戦争に基づいた文明は、あと一歩進めば破局となるような、発達の最終段階に達しています。戦争と平和の問題は、もう感情や理想主義が扱うことではなくて、私たちの文明をどのように変えていくかということです。そしてこういう変革は、生存競争のような法則によって自然に達成されるものではありません。おそらく、それは相互扶助という別の力によって達成されるのではないでしょうか。生存競争ほど一般的ではないものの、相互扶助も人類の発生の頃からずっと続いているものです。ひとことで言えば、人間社会の発展には、常に対立する二つの本能的な要因がありました。その要因とは、つまり、愛と憎しみなのです。
 平和で統一のとれた新しい文明を築くことは、もう夢想家のたわごとではありません。今日、それは、人類の、そして個々人の道徳的義務とさえいえるものです。平和の要素が戦争の要素を押さえるように、戦争と平和の要因を探ることは、今や知性を持つもの全員の倫理的義務なのです。文明を変革するためにEにできること、またEがしなければならないことを決めるのは、エスペランティストの存在意義にもかかわる問題です。

3. 今までなぜ平和が達成されなかったのか

 動物から進化したものですから、人間にも攻撃性があるのは確かなことです。しかしその攻撃性は個人的なものであって、戦争のような、集団による集団に対する攻撃性とは別のものです。社会の枠の中では、そういう個人的な攻撃性が抑えられています。平時でも戦時でも、個人的な攻撃性は許されません。一般の社会の中だけではなしに、軍隊の中でさえも、個人的な攻撃性というものは厳しく罰せられます。
 軍隊の規律は、上位の階級の者の命令に絶対服従することを要求します。ですから、戦争は暴力であるけれども、それは人間の本能的な攻撃性に根ざすものではないのだと言えます。人間は規律に従って人を殺したり命を捨てたりするのです。そしてその規律は教育によって育まれるのです。もっとも、教育というよりは調教というべきなのかもしれませんが。というわけで,戦争は社会的な現象であって、文明に深くかかわるものです。
 今日までの文明の発展の過程で、人間はまだ一度も世界的な規模で組織されたことがありませんでした。何千年ものあいだ、私たちの祖先は,食料を求めて小グループで野山をさまよったのでしょう。こういうグループがばらばらに離れている時には、人間の敵は野生動物だけでした。しかし人間の数が増えてくると、もはや自然から採集したものだけでは食料が足りなくなりました。そうして、グループ間の競争が始まり、戦争が発生したのです。敗者は立ち去るほかなく、あるいは殺されたのかもしれません。
 人間が牧畜や農業に携わるようになると、もっと良い土地を求めて争いがおきました。そして、未開の地がなくなって、勝利者はもう平和的な手段では、ほかの所に移り住むことができなくなりました。殺すよりも重労働をさせた方が得だと気づいて、勝者は敗者を奴隷にしました。こうして勝者は労働から解放されて、もっぱら統治や戦争の技術に習熟することになります。このようにして原始的な形での国家が形成され、社会は支配階級である軍人と被支配階級である農民とに分かれたのです。
 労働をしなくてもすむ階級は、集団的な暴力を組織化して支配者になりました。支配者と被支配者、主人と奴隷とが合体したものが、原始的な国家になったのです。
 暴力をともなった競争が、グループ間の戦争の段階へと達し、たくさんの人々を固く統一するすべを知っている支配階級が勝利をおさめ、そして、歴史にあるような初期の帝国ができあがったのです。
 被支配者は支配者よりも数が多く、暴力によって支配者の暴力に対抗することがよくありました。しかし、たいていの場合は被支配者が負けました。しかしながら、多くの人々の間に、くり返し平和への願いが生まれたのでした。
 ほかの地域でどのようなことがおきたのか、ヨーロッパでは普通あまり細かいことがわかっていません。というわけで私たちは、ヨーロッパでおきたこと、特に地中海の国々でおきたことを考えてみます。キリスト教は、支配者に対する被支配者の抵抗の現れでした。殺すことを禁じたモーゼの戒律や、神の前で人間はみな、富や能力にではなしに、自分の行いに責任を負うという福音書の教えは、文明の大きな進歩と言えます。唯一神の概念や人類の発生の源が一組の夫婦にさかのぼるという考えは、人間精神の大きな進歩と言ってよいでしょう。しかしキリスト教は戦争の問題を解決できませんでした。キリスト教がコンスタンティヌス帝によって国教と決められたとき、キリスト教会は武器に祝福を与えたのです。中世では、ともにキリスト教徒を名のる軍隊どうしが戦争をしました。武器を手にすることのない聖職者をべつにして、キリスト教徒は今日までずっとあちこちで戦争をしています。結論を言えば、平和を求める精神というものは、戦争に対抗できませんでした。平和を愛する人々には、弾圧と隷属という運命が待ちうけていたのです。平和というものは今日まで、単に憧れの対象に過ぎませんでした。
 戦争が組織的なものですから、平和も当然に組織的なもののはずです。確かに戦争と平和は倫理にかかわるものではありますが、平和を実現するためには世界的な規模で社会を作り上げる必要があります。小グループから、封建制度、国家、国家連合へと社会は拡大してきましたが、人間はまだ世界的な規模での社会組織を作り上げたことはありません。そして、そういうものが実現されるまで、諸強国やその連合体がずっと弱小国を抑圧し続けることでしょう。そんな状態では、平和なんて実現するはずがありません。
 物質的に見ると世界は一つになりましたが、道徳や組織の点ではまだまだです。国際連盟のような世界的な組織を作ろうとする試みは、道徳的な支えがなかったために、すくすくと育つことができず失敗しました。いま国際連合があまり活発であるとは言えないのも同じ原因によります。
 平和を愛する心から生まれたのにもかかわらず、キリスト以後2000年にわたって、キリスト教は長続きする平和を確立することができませんでした。では、E普及運動は平和な世紀を導くことに成功できるでしょうか。原子力エネルギーの発見以後、戦争と平和の問題は、人間という動物種が生き延びるためには避けて通ることができなくなりました。ですから、私たちの文明は世界平和へ通じる道をどうしても探さなければならないのです。
 新石器時代から今日まで、文明の発達にとって戦争は最も大きな阻害要因でした。連帯と平和に基づいた新しい文明が確立されなければなりません。しかし、それをどのようにして作り上げることができるでしょう。それが問題です。   
                                                                 (この章は藤巻謙一訳)

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