第5章  歴史寸描                   (この章は紀太良平訳)

1.ブーローニュ・シュル・メールから第1次世界大戦まで

 EとE普及運動は、その2世紀目の初年1989年に存在はしています。しかし今現実の状況は、政治的にせよ社会的にせよ、つまり歴史的に見て、百年前と同じではありません。百年前にZは彼の言語を提案し、程なくそれにEの内在思想を付け加えました。Zは、いろいろと習俗や宗教や言語の異なるユダヤ人やポーランド人やロシア人やドイツ人の暮らしているビアリストクの状況を世に訴えました。彼は、そういう異なった民族が平等に兄弟同士になることを考えました。いろいろな民族の言葉を超えた中立で各民族共通の一つの言語があれば、また一つの超越的宗教とか共通の道徳教理があれば、そしてそれらが各民族に平等で中立なものであるならば、同じ地域に住むいろいろな民族が平和に共存し兄弟のようになることさえ出来るだろう。共存についてのこのコンセプトが的を射ているか否か、それは論じますまい。多分いや確かにその通りでしょう、もしその考えが大多数の人に受け入れられるならば。しかしながら、次のことは認めなければなりません。それは、ビアリストクでのこの社会環境は、東欧ではよくあるにしても、西欧においては普通ではないということです。ブーローニュ・シュル・メールでZのこの基本的な考えに接したフランスのエスペランティストたちの反応は、フランスでの社会環境はロシア統治下のポーランドとは異なるのだという説明でした。
 ポーランドとロシアとの間には、国境を決める地理的障碍がありません。国境は、軍事的歴史的事件のままに、あたりの平野を移動するのです。ウクライナ地域を黒海の近くまで占めていた大ポーランドから、ツアーの拡張主義によって分割され大部分を奪われたポーランドへ、それが歴史の転回の全てなのです。国境が何度も変わり、住民たちは、あるものは土地に残り、他の者は移住しました。それは、由来が異なるゆえ混じりあうこともなく、また抑圧者と被抑圧者ゆえ権利の不平等なままに、いろいろな住民が一緒に住んでいる結果なのです。Zにおける平和とは、とりわけ、そのような諸民族を平和にさせることを基盤としているのです。
 ブーローニュ・シュル・メール大会のあった1905年のフランスの状況は、これとは異なっています。アルザス・ロレーヌは別として、フランスの国土はずっと以前から言語的には実際に統一されていました。そして、宗教については理性主義を基盤にして不可知論に発展し、総じて信じ易くはありません。ホマラニスモは、道徳的教義の観点からは重視されましたが、いろいろの宗教の教徒の共同生活にとっては、そうではありませんでした。カトリックとプロテスタントの問題はその時代にはもはや重大ではありませんでした。たまたまその時期は、ゾラ(E.Zola)の「私は弾劾する」という弁護活動とともに、フランス人の記憶になお新しいドレフュス大尉事件で示されたようなユダヤ排斥運動がまだ残っていました。ですから、その当時のフランスのエスペランティストたちの態度は、Eの創案者がユダヤ人であることを隠して事件を蒸し返さないことでした。「緑星旗の下の祈り」は彼等の耳に快くは響きませんでした。それで、詩の最後の節は発表を断念させられました。フランスでもドイツでも一般的に西欧では、事情はポーランドとは違っていました。西欧では排他的愛国心に結びついた国家主義が盛んであり、ブーローニュ・シュル・メールの大会に参加した大多数のフランス人も、この気風を免れてはいませんでした。
 9年後に事態は趨勢の赴くところ、ついに第1次世界大戦の開戦に至り、生まれたばかりのE普及運動は、破局への動きにブレーキをかけることが何も出来ませんでした。

2.二つの世界大戦の間

 第1次世界大戦は、1914年から1918年まで4年間続きました。ヴェルサイユの平和がやって来ましたが、その平和は、戦後の平和の秩序を伝統的な慣習に従って整えたもので、何ら問題を解決するものではありませんでした。ドイツは、賠償金を課せられました。中欧は小国に分割され、東欧は共産主義になり、そして世界の残り地域では以前のように植民地が続きました。
 ドイツは、敗者を待ち受ける伝統的な運命に従って罰を受けました。たしかにドイツでは皇帝の君主制が崩壊しましたが、本当に賠償を課せられたのはワイマール民主共和国であって、しかも、その賠償賦課は民主主義を安定させるためには正に適切なことではなかったのです。極度のインフレと広汎な失業。もし、その時に戦勝国が第2次大戦後のマーシャル・プランのような援助を行っていたなら、ナチズムも民主主義を倒すような主張をしなかったかもしれないのです。現在の観点からすればドイツ人民の反動は理解できるのです。もし、ヒットラーの攻撃的な演説に耳を貸していたならば、ドイツの民主主義は敗戦国ドイツに応じたやり方でなされるべきで、平和共存に恵まれた民主主義発祥国のようにするべきでないことが理解できた筈です。
 ヨーロッパを幾つもの小国に分割したのも的外れなことでした。当時の見地からは、中世の人びとのように小さな国ぐにが独立するのは、正しい解決でした。その点については、1915年にZが外交官へ語り掛けた次のような考えに添って確かなやり方で行われたのです。「外交官の皆様…。だが、このことは覚えて、覚えて、覚えておいて下さい。そのような平和を達成する唯一の方法は、いつの時代にも戦争の主要な原因であり、はるか古代の文明以前の時代からの野蛮な遺産である、一民族による他民族の支配、を先ず第一に捨て去ることです。」しかしながら、外交官たちは、Zのその時の次のような意見については考えもしませんでした。「もっとも良いと思われることは、大小さまざまなヨーロッパの国ぐにの代わりに、均衡よく地理的にも整理された「ヨーロッパ合衆国」を将来いつの日か創ることです。」
 当時独立した小さな国ぐには、中世の諸国家や民族の観点から配置されたのですが、経済的な観点を欠いていました。当時は農地制社会が産業社会へ変わる時代で、国境の障壁が通商の妨げとなりました。またその上、国際的な広い市場で競争されるべき労働力が分割されるため、小さい国ぐにでは産業が十分発達しませんでした。大産業の活力なしでは生活水準は低下を強いられました。
 1917年にロシアでツァー専政体制が破産し、共産主義体制が打ち立てられました。ツァーの後に、民主主義的な考えのケレンスキー(Kerenski)が束の間登場しましたが、彼は戦争を続行し、また農民に土地を分け与えませんでした。兵士たちは前線から逃げ去り、軍隊は壊滅しました。軍隊が無くなってケレンスキーは無力になりました。レーニン(Lenino)が国家権力を勝ち取り、トロツキー(Trotskii)が新しい軍隊を組織しました。そして、その軍隊が反革命勢力に打ち勝ち、同盟諸国の支持を得て、ついにロシアに共産主義体制を確立したのです。
 第1次世界大戦直後のヨーロッパは、そのような状態でした。確かに、その平和ははかないものでしかなく、第2次世界大戦の種は肥沃な土地におびただしく蒔かれていたのでした。
 1929年のニューヨーク株式取引所の株が暴落した後の金融危機。大量の失業。ヒットラーの国家主義と軍国主義の下でのドイツ民主主義の崩壊。イタリアのエチオピアへの植民主義戦争。スペインの人民革命戦争、やがて来る全世界的悲劇への前奏曲。
 二つの世界大戦の間にE運動はどのように展開したでしょうか。第1次大戦直後にE普及運動は確かな理想主義の下に復活しました。スイスに本部を置いたプリヴァ(E.Privat)時代のUEAは華やかな活動を展開しましたが、まもなくさまざまな出来事の影響で活動は衰微しました。E普及運動は中立的なものになって、初期のナチズムの下のドイツでさえ大会が組織されましたし、ローマではファッショのもとで別の大会が開かれ大会後行事として北アフリカへの航海をしました。ドイツでは多数のエスペランティストたちが国家社会主義を標榜するナチズムに参加しました。しかしナチズムへの加入もヒットラーのもとで生き延びるためには全然役立ちませんでした。というのは、「Eはユダヤの言葉だ」という考えで禁止されてしまったからです。
 第2次世界大戦が始まりました。ナチズムはE普及運動を沈黙させましたし、他の国ぐにでもE普及運動はなりを潜めました。戦争の嵐は、平和共存のしるしを何であれ一掃し去りました。大砲が強力な音で鳴り響きました。最後の超強力な音、ヒロシマの原爆に至るまで。

3.第2次世界大戦の結果

 何事にも終りがあり、第2次世界大戦もまた終りを告げました。ドイツとイタリアが敗れ、同様に日本も敗れました。もし勝者がいわゆる日独伊枢軸がわであったら、戦争の結果を想像するのは難しいことです。ひょっとすると、時とともに国家主義がその政治体制ゆえに、その弾圧に対抗する反対行動を世界の他の地域で生み出し、戦後幾十年も経たないうちに反対勢力が次第に根を張って枢軸の覇権を打ち砕くまでになったかもしれません。時の流れを止めることは出来ません。ヒットラーやムッソリーニは歳をとって死んだでしょう。極東の日本は、独自の政体の海上覇権を打ち立てて、全アジアとオセアニアを領土にしたかもしれません。イタリアのファシズムは、ドイツのナチズムの後塵を拝して2位に甘んじてはいなかったかもしれません。かつてヒットラーが断言したように、枢軸構造が千年も続くことは、おそらくありえないでしょう。
 枢軸国が戦力を失って、世界に残ったのは別の覇権、米国とソ連の2極でした。中国では共産主義が生まれていましたが、まだ覇権を主張するほど強力ではありませんでした。敗戦国のドイツと日本は力なく惨めな状態でした。復興には膨大な努力が必要ですが、その点について、第1次大戦の後とは対照的に、戦勝国が敗戦国を援助したのです。たぶん愛他主義ゆえでは全然なくて、援助をしなければ日独両国がソ連の共産主義の勢力の下に陥ると、米国が危惧したからです。新しい共同戦線の種が、その時すでに生き生きと生まれる用意をしていたのです。
 人びとは恐ろしく苦しんでいたし、復員者たちは家庭の平穏と飢えを満たすことを切望していました。好戦的でないフランスでは何がおきたでしょうか。フランスは簡単に敗北しました。そして平和主義者たち自身は、熱情もないままに動員されてすぐに敗北し、逃走したのち、次第に恐ろしい状況に引きずられて、レジスタンスに加わり、武器を取って、ナチスドイツの占領軍に対して英雄的に戦いました。たしかに平和主義は一面では失敗であり、このことについてはフランスも例外ではありませんでした。スペインにおいても同様でした。1936年7月19日にCNT(労働者全国連合)による平和主義者大集会がアナーキズムの影響のもとに記念闘牛場で開催されました。それを組織した人たちは非常に勇敢で、その同じ日にファッショ反乱軍に対抗して市街戦を戦いました。人びとは同じ言葉を話したら相互に理解しあえるだろうという事は、スペインでは空しいユートピアだと分かりました。中途半端な平和主義は屈従と暴力を伴いますし、もし負けたとしても同じようなことです。何であれ暴力が勝利した場合は新たな屈従が定まるのです。屈従を転覆させても、平和で同権な共存という事の本質を変えることにはなりません。今までの歴史の経過はそのようであって、本当に正しい革命がこのディレンマに終止符を打つのでしょう。だがまさに、それは暴力では決して実現できないのです。
 平和とともにE普及運動は、個人的なまた集団的な数々の恐ろしい体験を経て再び蘇りました。しかしそれは以前よりいっそう中立的なものになりました。内在思想は、捨て去られないにしても、ただ時たま賛歌"La Espero"を歌うことで示されるだけで、Eの出版物もいつもそのテーマを取り扱わず、あたかもそれを恥じるかのようです。しかしながら、底の底ではE普及運動の内在思想は正しいのです。間違えたのは諸国民なのです。もし、狂気的な民族主義の代わりに、"La Espero"に示されたあの新しい感覚(nova sento)が同じように熱狂的な熱意で根を張っていたとしたら、おそらく歴史の展開は違ったものになっていたかもしれないのです。だが、諸国民は、その理念を捕らえず、あるいは捕らえようと望みさえもしなかったのです。諸国民は、Zや彼を取り巻くロマンチストたちが想像したようではなかったのです。Zたちが想像したような人民はかつて無かったのかもしれません。なぜなら、古代の歴史を通じてほとんど何時も、社会は支配階級である貴族と支配され従属させられた階級、通常は農民とに分かれていたからです。現代では、いわゆる人民とは、理性よりも感情の衝撃で動かされ、自分自身の利益でなく他の人の利益のもとで操られている人間集団からなっているのです。その点についてはナチズムが良い例です。

4.第2次世界大戦終結からエスペラント百周年まで

 平和回復直後は幸福感に満ちみちていました。もはや戦争は起こしてはならないと思われました。より効果的な諸国家の協会を確立するために一団の知識人たちが研究したり会合したりしました。その結果、国際連合とその文化面の分科組織としてのユネスコが設立されました。それらの機関を一般大衆が支持するために全世界的な性格をもつ国連友の会とユネスコ友の会が創られました。理論的には、国連は本来の軍隊、青ヘルメットを持っていて平和を保障しなければなりませんし、同時にユネスコは、平和のための精神を育み、組織のための大衆の支持を得なければなりません。しかしながら強国どうしの調和は長くは続きませんでした。世界は対立する二つの世界に分けられました。一方は米国主導下に、他方はソ連の主導下にと分かれたのです。そのような、いわゆる冷戦と呼ばれる条件の下では国連は機能せず、国際外交は国連を素通りしていきました。諸国民も新しい国際機関を前にして無関心でした。大多数の人びとは全世界的な社会の概念を持たず、その関心は広い世界的視野に達していませんでした。国連友の会もユネスコ友の会も同様にして大集団の組織になれず、当時の一般的な意見の中で大した影響も与えられず未成年のまま終わりました。
 共通市場を持った欧州共同体の創設は、より大きい成功でした。とは言うものの、その設立に当たっては、ソ連とその衛星国とに対峙しての統一ということが、他の社会的考慮よりも優先したものでした。
 一時の幸福感の後で、現実には、第2次世界大戦後の世界は、二つの超大国の勢力下に二つの地域に分割されたものとなったと言うのが真相です。
 再び世界は大規模な再軍備に直面しています。しかも通常兵器でなく、原子爆弾やより強力な核爆弾です。保有されている爆弾の量は、その破壊力が全世界に及び、わが惑星上の生きとし生けるものを消し去るに足るものなのです。場合によっては第3次世界大戦がすでに起こったかもしれないのですが、ひょっとすると、現実の状況を熟知している軍主脳部が現在の平和の要因であるかもしれないのです。また、どの国民も新しい戦争を熱望などしていません。しかしながら政治家たちは、国家固有の権力の印としての適切な軍縮の達成と言う口実のもとに再軍備を引き続き推進しています。そして、各国民は税金を負担させられ、第三世界は悲惨であり、全世界の社会は混沌としています。どうすればこの状況から脱出できるでしょう。国連の失敗は眼に見えています。再軍備に対抗する諸国民の失敗も確かです。彼等大衆は消極的であり、また労働者はストライキもせず、相変わらず兵器造りに従事しています。また、E運動は、世界平和確立に決定的影響を及ぼすほど強力にはなっていません。人民大衆は、エスペランティストの呼び掛けに対して、国連やユネスコ友の会の呼び掛けと同じように耳を貸そうとしません。総じて各国民は積極的な平和主義には寄らず触らずにしています。一方的な国家の軍縮は、他国の勢力への屈従を導き、それは二つのブロックの誰もが望まないところだと言うことが憂慮されます。実に人類は、見たところ出口のないような全く新しい状況に置かれているのです。各国の外力への対峙は常に続いていますし、また軍備も一般に備わっています。しかし、新しい全世界戦争は、少なくとも文明を破壊し、この惑星上のあらゆる生命の足跡をさえ破壊し尽くすでしょう。
 歴史上初めて人類が同じ学問的また物質的な文明によって物的に統一されているのが現在の状況です。もっとも、まだそれぞれ異なる考え方によって分離されており、そして何にもまして、世界的規模で組織されないままではありますが、人類は統一されるべきなのです。しかしながら、個々の国ぐにの過去の文明や戦争の関係は現在なお生き残っていて、社会のさらなる前進に役立ってはいません。新しい文明は、現れるべくして止まったままなのです。まだ当分、人類は漂流するのでしょうか…。     
                                                              (この章は紀太良平訳)

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