第4章  エスペラント運動            (この章は紀太良平訳)

1.第一次世界大戦まで

 1905年から1904年まではE運動は急速に発展しました。ブーローニュ・シュル・メール大会では エスペランティストの参加者は688人でしたが、1914年のパリ大会は、開催は出来なかったのですが、参加申込者は3,740人に達しました。
 イード(Ido)危機にもかかわらず運動は進展しました。会長のボーフロン(Beaufront)やイードの匿名の創始者クーチュラ(Couturat)などフランスのE普及運動で最も傑出した知識人たちが、E運動から離脱し対立さえしました。しかしながら、フランスの言語学者の大多数がイードに移ったにも拘わらず、Eはその危機を吸収して広く進展しました。
 もしEが単なる言語に過ぎないと見なされていたら、死んでしまったかもしれません。イード危機の時に、Eは既に社会現象になっており、その故に成功したのです。ヘクター・ホドラー(Hector Hodler)やプリヴァー(Privat)が活動家として加わったUEAの設立は、E運動に刺激を与えました。それは、諸国民の間の友愛という理想主義的な概念のもとでロマン主義的なものになりました。プリヴァーは空論家でした。Zは大会の演説において相変わらず来会者の熱狂を呼びました。人びとは彼をマイストロ(大先生)と呼びました。しかしながら、Zは、E語についてはともかくとして、彼の世界観であるホマラニスモ(Homaranismo 人類人主義)に人びとを引き寄せ転向させるには至りませんでした。西欧には理性的思考があって、秘教的雰囲気のある精神運動の導入は成功しませんでした。事実、西欧の人びとは、宗教的狂信に当面したとき、宗教間の調和を図ろうとはせずに、一般的に公認された考えに添って疑い深く対応したのでした。また、人種に関する大会においても、Zの主張は人びとの傾聴を得ることが出来ませんでした。
 Zは、1912年のクラクフ大会のときに、マイストロと呼ばれることに苦情を言い、いかなるものにもせよ首長扱いを辞退し、ホマラニスモに自分自身を捧げる意向を表明しました。ほどなく第1次世界大戦が始まりましたが、E運動は戦争反対のためには何も出来ませんでした。第1次世界大戦中に各国においては国家主義が勃興しました。多数の エスペランティストが戦場の塹壕の中で斃れましたし、参戦しない エスペランティストの大多数は何もしないまま散り散りになりました、――スイスのUEA事務局による敵国間どおしの家族の文通仲介サービスを除いては――。
 この歴史上の暴風状態は、諸国民の相互理解とは反対の方向に吹き荒れました。ここで疑問があるのですが、もし、第1次大戦の勃発が後20年遅らせられたら、E普及運動が戦争を押し止められたでしょうか。出来たかもしれません。もし、その仮定の20年の間にEの普及が加速度的に拡大して、積極的平和主義者の意見が過半数に達するまでになっていたならば。そのような場合には、各国政府は宣戦布告に関してより慎重にならねばならなかったでしょう。戦争には、前線の人間集団の熱狂的な相互憎悪感情が必要です。これに反して、単なる宣伝による理屈づけでは生命を危機にさらすことは容易ではありません。戦意高揚には情熱が必要であり、国家主義はそれを大量に供給したのです。
 戦争中の1917年にZは亡くなりました。彼の最後の公的な発言は、1915年の「大戦後について、外交官に対する呼びか掛け」です。その最後にこう述べられています。「外交官のみなさん!最も残忍な野獣にも劣る地位にまで人類をおとしめたあの大量殺人の恐るべき戦争の後で、ヨーロッパはあなたがたに平和の希望を託しています。それはごく短期間の平静状態ではなく、文明人としての人類にのみふさわしい恒久の平和です。しかし、くれぐれもご記憶願いたい。そのような平和を達成する唯一の方法は、戦争の主要な原因となり文明以前のはるか昔の古代社会の野蛮な遺産である『一民族による他民族の支配』の廃止なのであります。」(OV.p.357)(水野:Eの創始者Z p,268)

2.第1次大戦から第2次大戦へ

 Zは1917年に亡くなったので、戦争の終結を見ることは出来ませんでした。ヒレル主義と、その続編のホマラニスモは成功しませんでした。彼の「外交官に対する呼び掛け」は、もちろん誰にも聞き入れられませんでした。
 もっと以前、1912年のクラクフ大会において、Zは、Eとは別の彼の夢であるホマラニスモに自らを捧げるために、Eの指導者たることを辞退しました。それは、Eとは全く独立のものであるホマラニスモに献身することで、Eがその巻き添えを食わないためでした。Zは、大戦終結前に比較的若く59歳で亡くなりました。ですから、もし大戦を生き延びていたら、彼がどのように活動を再開したかを推測することはできないのです。E運動は、孤児として、打ち砕かれ夢を断たれた社会的エトスとして残されたのです。
 ロシアの革命。ドイツに対する過酷な賠償とそれに伴う失業や高度インフレなどの経済危機。ドイツの民主主義は安定できず、ドイツ国民の多数がより強い国家主義ナチズムに走りました。しかしながら、E運動は戦争によって死に絶えはしませんでした。戦争中、中立国スイスにあったUEAは、人道的に行動し、戦時捕虜と家族とのスイス経由の文通サービスを確保しました。
 戦後すぐにE運動は生き生きと再生しましたが、ほどなくその勢いを失いました。当時のUEAは個人会員のみからなっていて、いったん栄えた後すぐ第2次大戦までの衰退に落ち入りました。 エスペランティストの集団は各国の組織に加入しました。1936年に国際E連盟(Internacia Esoerato-Ligo)ができました。E運動は、その理想主義的気風の多くを失ない、大会はまるで観光旅行同様のものになりました。
 ですから、ランティ(E.Lanti)の「中立主義を去れ」の声が反響を呼び、無国民主義がZのイデオロギーの帰結という意味で広まったのも奇異なことではありませんでした。1921年、プラハでの第1回労働者大会において全世界無国民協会(Sennacieca Asocio Tutmonda (SAT))が設立されました。それは無党派的性格の無国民組織による階級闘争的労働者の協会です。労働者E運動は、力強く成長し、中立的運動を凌駕するまでに成功しました。しかし、SATにも危機が訪れました。設立者のランティは辞職しなければなりませんでした。そのうえ、ソヴィエトの影響下で共産主義者によって、1932年8月ベルリンでプロレタリア・エスペランティスト・インターナショナル(Internacio de Proleta Esperantistaro (IPE))が結成されました。
 第2次世界大戦は、ひそかに孵化したのでも偶然にやって来たのでもありません。黒雲が嵐を告げつつ地平線を覆っていました。ソ連の共産主義、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、スペイン内乱などなど事件の竜巻が、すべての国の国民と全く同様にエスペランティストたちを巨大な墓場へと引きずっていきました。E普及運動は、平和運動と同様に事件の展開を止めることが出来ませんでした。そして全ての人びとが、今までで最大の人間的破局へと引きずられて行ったのでした。

3,第2次世界大戦後

 第2次大戦が終わると、E運動は困難のなかで再生し統一のために奔走しました。1946年に、世界E協会(UEA)と国際E連盟(IEL)は、共通の名称 UEAのもとに統合されました。UEAは、1908年4月の設立から1946年の統合までは、個人の協会でした。IELは、各国ごとの地域団体を基礎として組織されていました。改新されたUEAは、個人の協会としての性格を保つと共に各国の協会も加わった組織でした。最初のUEAの非民族的な性格はすっかり消え去りました。世界を第2次大戦に導いた国家主義は無くならず、反対にE運動そのものに影響を与えました。  
 E普及運動の内在思想に何がおきたのでしょうか。E普及運動の内在思想は、ただ聖歌 "La Espero"に残っているだけでした。恐ろしい数々の出来事の後では、内在思想は、たいへん単純で素朴な新しい感覚に見えました。しかし、E普及運動の内在思想は、もっと注目されて念入りに仕上げるに値しないものでしょうか。Zの創った16箇条の簡単な文法規則によるEの文法的な側面については、カロチャイ(Kalocsaj)とヴァランギャン(Waringhien)による"Plena Analiza Gramatiko"(エスペラント文法の完全分析)に到達しました。内在思想についての同じような研究はなぜないのでしょうか。Zは、1906年ジュネーヴでの第2回大会の演説でこう述べました。(Ludovikito,Kajero 7,p.361)「ところで、私たちの仕事が実を結ぶためには、何よりもまずE普及運動の内在思想を明確にせねばなりません。」そして、語られることのなかった演説の第2部で、内在思想をホマラニスモ宣言として定義づけました。しかし、既に述べたように、内在思想によってE言語をホマラニスモと統合しようというZの努力は失敗に終わり、彼は、E普及運動の内在思想を明確に述べる努力をそれ以上はしませんでした。それについては、Zは1912年のクラクフの第10回大会の演説(OV.p.411)で次のように表明しました。「E普及運動の思想の本質は何か、それは中立・人間的、脱民族的言語に基づいて将来どのような相互理解へと人類を導いていくのか。……これについては、人によってその形や程度の違いはありますが、ともかく私たちはみんな心にはっきりと意識しています。この口にも表せない厳粛で奥深い感情に、私たちはきょう身をゆだねましょう。理論的な説明などで、この崇高な気持ちを汚してはなりません。」(KS,p.303) しかしながら、もしEの言語的側面が文法的諸研究に左右されるとするならば、Eの普及およびそれと共にZがこの国際語に与えようとした目的―各人が隣人を全て人間として友人としてのみ見ようということ―に到達できるかどうかは、この言語の精神すなわち内在思想にかかっているのです。このことは認められなければなりません。イデオロギーで突き進むこともなく人間へのメッセージを伝えることもなしでは、この言語の普及が成功して、人類に平和をもたらすような歴史的要因となることは出来ません。
 UEAとIELが統合したのと同じ1946年に、Universala Esperanto-Ligo(世界E連合
UEL)も設立されました。設立者たちによれば、UELの特別の課題は、何らかの世界連邦の形態の基礎、すなわち諸国民の平和な相互関係を、権能ある政治家たちに任されている政治活動を交えないで作ることでした。
 UELは、設立当時は満足のいく発展をしましたが、程なく衰えて1988には名前だけのものになりました。UELは何故失敗したのでしょうか。そのことや一般的なE運動の発展の失敗については分析が必要です。実のところ、その時代の空気は理想主義を受け入れないものでした。人びとは実利主義にはしり、未来のアルカディア(理想郷)を夢見ることがありませんでした。前世紀のロマン主義、Eもそこに根を張っていたのですが、それはもはや過去のものとなりました。今日では人びとは現実主義の基盤である日常茶飯事にかまけています。しかしながら、その様な今日の一般的な現実主義の下で、将来の黙示録的な破滅の世界戦争の卵がかえろうとしてはいないでしょうか。
 1952年に、イヴォ・ラペンナ(Ivo Lapenna)がE運動に現れましたが、そのときEは、なお最初の「内在思想」の幾らかを人間的国際主義の名のもとに保っていました。Eのラペンナ時代は、彼がUEA会長を退き、その後1987年に亡くなった後は、殆ど終りを告げました。今日のE普及運動には、いろいろな傾向がありますが、Zのの精神が生き生きと現れているとは言えません。

4.1世紀経たE運動の状況

 E運動が1世紀を経たいま、E運動の現状を冷静に分析するのは当を得たことです。現在E普及運動は成長してはいるものの、近い将来に、実際上、人類を統合するべき歴史的要因になるには十分な影響力を伴っていません。E普及運動の内在思想は、今日なお曖昧なままです。事実、内在思想はエスペランティストの行動や同志募集の核心と見なされていませんし、またそれについて語られることも少ないのです。Zは、1909年のバルセロナ大会でのUEAの非公式な集会で、ホドラー(H.Hodler)やルソー(Th.Rousseau)によって1908年1月に新しく創られたUEAについて、こう語っています。「しかしながら、幾人かのエスペランティストたちは、私が公式にはなし得なかったことを非公式な手段で実行するという名案をもっていました。全てのエスペランティストをではなしに、内在思想を受け入れる人たちだけを統合するという案です。」
 実際には、UEAとIELの合体に合意した1947年のベルンの第32回世界大会以後、現在のUEAは、言語面のことは別として、社会に関するあらゆる事については殆ど中立的になりました。そして、このことは偶然や過ちゆえにおきたのではありません。第2次大戦後の社会的雰囲気は、そんなものなのです。
 第2次大戦勃発以前には、政治や社会思想や民族主義や国家主義などへの情熱がたいへん激しくて、そのため個人といわず集団といわず恐ろしい大量殺戮に引き入れられたのでした。戦後に夢は覚め、情熱は鎮静しましたが、理想主義も同時に消えてしまいました。もはや誰も将来の完全社会を夢見ることもなくなり、個人を集団のために捧げることもなく、不完全なままの現在社会をさえも、未来のパラダイスへの夢のための犠牲に捧げることもしなくなりました。夢の喪失が一般的となりロマン主義的な感情が消え去りました。 冷戦が始まり、兵器としての原子核エネルギーがあらゆる物を破滅させるぞと脅迫したので、人びとはみなおのれ自身の殻に閉じこもってしまいました。ある人びとは気楽に人生を楽しむだけだと考えましたし、他の人びとは金銭や権力の社会的尺度をあげるのに奔走しました。そして残りの大部分の能力のない人びとは、いわゆる「傍観者」つまり自分のこと以外は何にも関心を持たない人になりました。他の幾らかの例外的な人びとは薬物におぼれたり、あるいは最も情熱的で原始的なテロリズムに惹かれていきました。 エスペランティストたちは、普通の人として社会の中に混じり、世間一般と同様の生活感覚で暮らしています。彼等は、新しく開けた地平に総体的理念を押し出す代わりに、世間並みの考えに引きずられてEの実利的活用を信じています。しかし、その点で世間の大方の人びとは、Eを英語と同様に魅力あるものとは見ていません。説得して考えを変えさせる力がなくては、E運動は沈滞するのです。
 E運動は、当初の理想主義的エトスや楽天主義を失いました。国際的に公認されたと主張したところで、各国はその呼び掛けに耳を貸しません。強大国はそれぞれの母国語を支持していますし、弱小国は強国の影響下にあります。各国民間の相互理解があったとしても、各国政府の関心をひくことはありません。平和であれ戦争であれ、彼等にとっては外交案件です。Eには、たしかに敵さえもあるのです。

5.1世紀を経たE運動の潮流

 1988年現在、E運動の主要な潮流として次のものがあります。
 Universala Esperanto-Asocio (UEA、世界エスペラント協会) は、個人会員からなる最初のUEAと、地域グループや各国の国内協会からなる Internacia Espranto-Ligo (IEL) とが 1947年に合体した組織で、 エスペランティストたちの最大多数の集団です。その内部からUEAに反対して Neuxtrala Esperanto-Movado(NEM、中立のE運動) が、いわゆるハンブルク騒動(1974)の後でつくられました。それは、人間的国際主義を唱え東欧諸国に関してUEAの態度を修正するように行動しましたが、イヴォ・ラペンナ(Ivo Lapenna) の死後は統一の勢いを失いました。
 Sennacieca Asocio Tutmonda (SAT、全世界無国民協会) は、1921年にプラハでのSAT創設大会で設立され、全世界の労働者集団の階級闘争のために国際語Eを実際に役立てることを目的としています。
 Mondpaca Esperantista Movado (MEM、世界平和エスペランティスト運動) は、「世界平和に奉仕するエスペラント」をモットーとして、東欧の平和運動の見解の影響を受けています。
 "TUTMONDE" には、平和の代議員たちがあって、全世界の平和主義を調整するために橋渡し言語としてEを用いています。
 Internacia Komitato por Etnaj Liberecoj (IKEL、民族解放国際委員会) は、民族主義の考えに添って、少数民族とその言語の保護を主張しています。
 Internacia Esperanto-Ligo (国際E連盟)は、アンドレ・チェ(Andreo Csech)のモットー「世界平和保障のための諸国民の統一の加速」を掲げて「全人間集団社会の創造と教育」を課題としていますが、今やほとんど消滅しています。
ホマラニスモの復活を目指す"Homarana Asocio(人類人協会)"は、1985年にマールブルク宣言で提唱されました。
 分科会的な各種組織の中では、特に、Internacia Fervojista Esperanto-Federacio (IFEF、鉄道員エスペランティスト国際連合)は、 エスペランティストの鉄道員の集団で、国際鉄道員大会を毎年開催しています。
 E運動の宗教団体としては次のものがあります。
    Kristana Esperantista Ligo Internacia (KELI、クリスチャン・エスペランテ                               ィスト国際連盟)
    Internacia Katolika Unuigxo Esperantista (IKUE、カトリック・エスペラン                              ティスト国際連合)
 Eを公認している宗教としては、
    開祖、出口ナオの精神的指導による「大本教」が日本で広まっています。
    Bahaa Esperanto-Ligo (BEL、バハイE連盟)は、バハー・アッラーが開いたバハ    イ教にEを公認させるために、バハイ教の一分科として活動しています。
                                                          (この章は紀太良平訳)

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