第3章 ザメンホフとエスペラント運動
                                                                 (この章は紀太良平訳)

1.始まり

 エスペラント(E)運動は、芽生えとしては1887年に「E第一書」が著された時に始まったのですが、実際には1905年、ブーローニュ・シュル・メールの第1回大会の際に公に確立したのでした。そこで「E普及運動に関する宣言」によって、E普及運動とは何かが初めて定義づけられました。その第1項に、こう記されています。(Ludovikito kajero 7.p.106):「E普及運動とは、中立的人間言語を全世界に普及させる運動である。この言語は、諸民族の内的生活に干渉せず、現存の民族言語の排除を目的とすることも決してなく、民族を異にする人びとに相互理解を可能にし、さまざまの民族が言語をめぐって紛争が絶えない国ぐにで公共機関のための仲介言語となることができ、すべての民族にひとしく興味ある作品を発表できる言語である。これとはべつの思想や希望をE普及運動に付け足すエスペランティストがいても、それはまったく個人的な問題であって、E普及運動は責任を負わない。」(ザメンホフ著、水野義明編訳「国際共通語の思想」 p.192 (以下KSと略す))
 E普及運動はまず、理想主義的な風潮のあったロシアで広まりました。しかし、1895年にトルストイ(L.Tolstoj)が"La Esperantisto"誌に書いた二つの論文がもとで、帝政ロシアの検閲が、ドイツのニュールンべルクで出版されていたその雑誌の輸入を禁止したときE運動は強い打撃をを受けました。(Pres.p.698)
 ドイツでは、E普及運動はかつてのヴォラピュク(Volapuk)の勢力に代わって根を下ろしました。しかし、19世紀から20世紀への代わり目に当たって最も盛んだったのはフランスでした。
 声望ある人びとや知識人たちがE普及運動に参加し、その中には多くの不可知論者や熱狂的にEを己が言葉としたボーフロン(Beaufront)のようなカトリック教徒さえいました。
 前述の1905年のブーローニュ・シュル・メールでの第1回大会において、フランスのエスペランティストたちとザメンホフ(Z)との間にいろいろと態度の違いがあるのがはっきりしました。大会の組織者たちは「緑星旗の下の祈り」の詩を公に朗唱することを狂気の沙汰だとして全面的に反対しました。Zがそれに屈しなかったので、彼等はやっとZに詩の最後の節の次の箇所を抹消させるだけに止まりました。「…クリスチャンもユダヤ教徒もイスラムも、我らはすべて神の子だ…」
 E運動には、1世紀たった今なお解決出来ない問題があります。単なる言語なのか、内在思想を伴った言語なのか、内在言語を伴った思想なのか、といった問題です。
 Eの内在思想とは何でしょうか。その定義は曖昧なままです。1906年のジュネーヴでの第2回大会におけるZの演説(Ludovikito,kajero 7.p.364)で内在思想について語られなかった部分は、今なお殆ど知られていないままなのです。事実、1959年に"la nica literatura revuo"(ニース文学雑誌)が、Zがジュネーヴで言い得なかったことを出版するまでは、一般的にE普及運動は、Eの内在思想に関するZの考えを具体的には知らなかったのです。
  エスペランティスト言語学者のエリートが反対したので、Z自身が結局「内在思想」を具体化するのを断念して、ホマラニスモ(homaranismo 人類人主義)のために別の運動を進めるように尽力したと言うことは確認できます。しかしながら、1907年のケンブリッジでの第3回大会の開会にあたってのZの演説で、彼はなおもこう主張しました。(Ludovikito,kajero 8.p.82)
「E国では、E語だけでなく、E普及運動の内在思想も支配しています。E国では、公式的一般的なE普及運動だけが支配しているのではありません。それに、まだ「なにか」もあります。まだきっちりした形になっていませんが、エスペランティストならみんなはっきり意識しているものです。つまり、緑星旗が支配しているのです!」
「緑星旗とは、いったい何なのでしょうか。商品を売るためにだけEを使っている商人や、気晴らしのためだけにEを使っている遊び人にとっては、緑星旗はEの旗印にすぎず、大会や各種機関用に決められた飾り物にすぎないかも知れません。しかし、Eのために戦っている私たちは、べつの見方をしています。私たちにとって、緑星旗は神聖なものです。平和のための戦いに前進するときの旗印です。私たちが何を目指してEのために働いているのかを、たえず思い起こさせてくれる声となっているのです。私たちは、希望を抱いています。何百年先かも知れないけれど、遅かれ早かれ(Eの「賛歌」にもあるように)
   中立の ことばをもとに     
   かよいあう 心と心       
   人びとは 同じ思いに      
   大いなる 家族とならん     
         (KS p.221〜223)
                   
  
2.東欧から西欧へ

 1895年のことです。Zはドイツのニュールンベルクで発行の雑誌"la Esperantisto"の編集をしていました。 "la Esperantisto" の購読者の4分の3はロシアに居ましたが、そこで不運なことがおこりました。その雑誌に掲載されたトルストイ署名の二つの論説、一つは「理性と信仰」と題するもので、もう一つは日清戦争に関連して、平和主義や人道主義や自由を愛する立場から宗教に関する政府の偽善に論及したものでしたが、それを口実にして帝政ロシアの検閲がその雑誌の輸入を禁止したのです。後に輸入が許されたのですが、Zは資力不足のため、もはや外国の出版を仲介することは出来ませんでした。この一見とるにたらぬような事件に、おそらく重大な意味があるのです。もしロシアの検閲がないか、あるいは"la Esperantisto"の輸入が禁止されなかったら、E運動はロシアで拡大し、さらにEとその内在思想との一体化が確固としたものになり得たかもしれないのです。キリスト教的ヒューマニズム的なカリスマ性をそなえたトルストイの協力が、内在思想を世界に広めるための道具として役立つ国際的言語と結びついて、理想主義的な内在思想の発展のための適切な基礎となるべきであったのです。
 ロシアの検閲はEの普及にブレーキをかけましたが、その言語の種は西欧フランスで生き生きと生まれ変わりました。1905年、ブーローニュ・シュル・メールでの第1回E大会が準備されていました。フランスの エスペランティストたちは、Zとは全く別な考えをもっていました。彼等の大部分は、自由思想家やセベール(Sebert)将軍のような軍人や、ボーフロンのようなカトリック教徒でした。フランスでは、ドレフュス(Dreyfus)事件について、ゾラ(Zola)が「私は弾劾する」というドレフュス擁護のキャンペーンを展開し、まだ成り行きが続いていました。大会の組織者たちはこれに当惑して、Eの創案者がユダヤ人であることを隠したいと思いました。「緑星旗の下の祈り」は、そういう彼等に冷水を浴びせかけるものでした。しかし、彼等はその詩の朗唱を止めさせることが出来ず、ただ次のような最後の節を読ませないようにするだけに終わりました。
「兄弟よ団結し手をつなげ、平和の武器を取り進め。クリスチャンもユダヤ教徒もイスラムも、我らはすべて神の子だ。つねに思うは人類の幸、邪魔があろうと休まず止まず、友愛目当てに怯まず進め、前へ進めよ限りなく!」
 1906年、ジュネーヴでの第2回大会において、ZはE語とその内在思想との一体化を主張しましたが、駄目でした。大会会長セベールが、大会に政治的・宗教的な事柄を入れるべきでないとの理由で反対したので、事実、彼は講演の後半を話すことが出来ませんでした。
 1907年、ケンブリッジでの第3回大会において、Zは英国民についてこう語りました。「この事実は、何にもまして、国際語が弱小民族だけでなく有力民族にとっても役に立つと人びとが分かりはじめたことを、示しています。しかし、この事実の意義は、もっと重大です。つまり、E普及運動は単なる利己的便宜の問題ではなく、民族間の正義と同胞愛という重要な思想であって、その思想のために、出身民族の強弱にかかわりなく、民族間の正義の実現が自分たちに損か得かなど考慮せずに、あらゆる民族の気高い人びとが奉仕を希望しているのです。英国の同志たちの大部分はE普及運動の内在思想に導かれて私たちの仲間に入ったのですから、私たちはいっそう喜んで、心から感謝する次第です。(KS p.250)」そして彼は演説をこう締めくくりました。「E国は、徐々に未来の人類同胞愛の教育の場となるでしょう。まさにその点に、大会の最大のメリットがあるのです。
 E万歳、なによりもE普及運動の目的と内在思想万歳、諸国民の友愛万歳、民族間の障害を打破するすべてのもの万歳、緑星旗の成長と開花万歳! (KS p.227-228)」
 1908年のドレスデンでの第4回大会の開会演説では、Zはこう述べて演説を終わりました。「私たちの大会は、同胞愛に結ばれた未来の人類の歴史のための予行演習となるのです。私たちにとってたいせつなのは、Eの些細な問題点ではなく、Eの本質、その思想と目的です。だから、何よりもまず、Eがとぎれることなく存在し、休むことなく成長するように心がけねばなりません。…」(KS p.250)
 1908年にスイスの青年ホドラー(H.Hodler)がUEA(世界E協会)設立の準備をしました。そして、1909年のバルセロナでの第4回E大会ではUEAの分科会が開かれました。その開会にあたりZはこう述べました。(Ludovikito 9.p.77) 「さて、UEAは あらゆるエスペランティストたち全てを統一するものではなくて、すべてのE主義者たち、すなわち、Eの言語としての外部形態だけではなく、その内在思想をも併せて考慮に入れる人びと全てを統一するものです。エスペランティストたちの大部分がこの考えに同意していることは、あなたがたの協会が短期間の間に私たちの運動に極めて好意的に受け入れられたということが証明しています。
 UEAが、あらゆる人びとの間の関係や奉仕のために適切で中立的な基礎を提供し、それによって、人びとの相互扶助が諸国民の友愛と尊敬を増進し、相互理解を妨げる障害が除去されるであろうということが、各地で理解されています。この原則の中に、あなたがたの協会の主たる重要性があるのです。
 公式の エスペランティスト集団は、ブーローニュ宣言によって、この点に関して完全な中立性を強いられており、純粋にE言語の問題だけに限定しなければなりません。それに対して、UEAは、会員の同意によって定められた目的のための組織であろうとする人たちのみを代表しているのですから、E普及運動の内在思想について大きな意味のある重要な仕事をすることが出来るのです。」
 UEA第1回大会は、1910年8月にアウスブルクで開催されましたが、これは、同年同月にワシントンで開催された第6回E大会とは全く別個のものでした。UEA第2回大会は、1911年アントワープでの第7回E大会に組み入れられて開催されました。1912年クラコフでの第8回E大会では、それと共にUEA第3回大会が開かれました。クラコフでのその大会で、Zは、 エスペランティストの活動において如何なるものにもせよ自分が首長といったものになることを辞退して、こう言いました。「この瞬間から、私をマイストロ(大先生)と見なすのを止めてください。そういう肩書きで私に敬意を払うのをやめてください。」 1913年には、第9回E大会と同時にUEA第4回大会がベルンで開催されました。Zはその大会に出席しなかったので、恒例の講演をしませんでした。
 この第9回E大会のあと、1914年パリで開催の第10回大会が続きます。パリE大会は堂々たるものになるはずで、参加申込者は3740人、フランス人1200人と外国人2500人でした。大会の開会式の準備もすでに整っていました。ところが、エスペランティストたちが驚いたことに、8月1日にフランスに動員が下りました。第1次大戦が起こったのです。大会参加者たちは大方まだ旅の途中でした。Zはドイツにいました。あらゆるEの組織が崩壊しました。戦争の嵐が理想主義を一掃し、4年間に及ぶ荒々しい現実が一切の希望に終止符を打ちました。
 翌1915年、米国のサンフランシスコで、163人の参加による第11回大会が開催されました。E運動の組織に何が残っていたのでしょうか。スイスでUEAが機能していて、敵国どうしの間の文通を組織していたのです。
 かつての戦前の運動は、地域グループや、それぞれの国の全国組織、および個人入会者や理事や代表委員からなるUEAによって成り立っていました。現実に大戦が エスペランティスト集団の上に落ちて来て、皆はばらばらにされ沈黙してしまったのです。排他的愛国主義が全ての国家社会の一般的ムードになりました。ひとりZが"Alvoko al la Diplomatoj"(外交官に対する呼びかけ)によって事態について語っただけでした。なおかつイード(Ido)のもたらした危機がE運動を大きく揺さぶりました。ボーフロンや多くの知識人たちは、Zにあまり共感しませんでした。彼等の目には、内在思想やまだ余り知られていないホマラニスモは、不可思議なユダヤ人のたわごとと映りました。しかしながら、普通の エスペランティストたちや単純で善意の人びとは、幾らか理想主義的な人さえも含めて、Eへの忠誠を守り、イードの分派に対抗してEを支持しました。けれども結果としては、言語としてのEとその内在思想との統一を目指したZの永年の努力は、実際には失敗に帰したのでした。               
                                                                 (この章は紀太良平訳)

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