第1章  言語エスペラント        (この章は中塚公夫訳) 
 
1.エスペラントの起源
 
エスペラント(E)とその内在思想の起源は、その生涯を国際語の完成に捧げたひとりの人物、ザメンホフ(Lazaro Ludoviko Zamenhof)に由来しています。しかし、実を言うと、それは偶然におきたのではありません。
 人間のパーソナリティは、大部分がその人間の存在そのものと生活をとりまく環境とによってつくりあげられます。しかし、それだけで人格が決まるわけではありません。人間とその環境という両者だけが効き目があるというのならば、大多数の人はそうであるのが事実とはいえ、パーソナリティはほとんど決まってしまうことでしょう。たくさんの人々が、危機、革命、戦争のような嵐の時代と同じように、物事が順調にいっている平穏な時代にも、移り変わる環境に引きずられてさまよっています。しかし、大多数の人が環境に引きずられていても、良いことをするためか悪いことをするためかは別として、環境を前にして大多数の人とは異なる反応をする人たちもいます。宗教の開祖、イデオロギーの創始者、新しい仮説をたてる科学者、果ては帝国を興す者、革命をおこす者がこの種の人間に属します。その人たちのパーソナリティに重要なのが知能ですが、他の何にもまして抜きん出ているのが、自分が選んだ目的を達成しようとする強い意志です。普通の最もたやすい道を選ぶ代わりに、最も難しい道を選び、自発的にその生涯を目的達成の行動に向けるのはいつなのでしょうか。それを説明できるのは、それぞれの生涯をよくよく知ったうえでのほんとうに深い心理学的分析しかないでしょう。けれども、そのような人たちでも大部分は失敗に終わっています。環境にうち勝つことができないのです。失敗して名も知られぬままに悲劇のうちに生涯を終える人たちについては誰も語らないのです。残りの僅かな人が重要人物となり、人類の歴史に名を留めるのです。そのような人たちの一人がザメンホフ(Z)です。
 あらゆる傑出したパーソナリティを持つ人が、生き方を変え、困難なまたは英雄的でさえある生き方を選んで行動するようになったのがいつなのかを推測するのはきわめて難しいことです。このことを意識している人は心ひそかにその謎を知っていますが、その他の人はその謎を知るのが難しいのです。けれども、ある人間の思想、行動、環境の分析をすると、その人のパーソナリティおよび反応の動機をいくらか説明できます。
 Zは特にボロフコ(Borovko,1895)とミショー(Michaux,1904)に宛てた手紙およびエスペラント(E)の由来についての記事(1900)で自分のことを語っています。
 Eの由来について書いた文の中で、彼はその言葉がどのようにして造られたのかを記しています。ボロフコに宛てた手紙(L.1, p.343)の中で、彼は自分の生まれ故郷のまち、ビャウィストクでの社会的環境について語り、具体的に次のように述べています。「どこよりも多く、そのような町では、感受性の強い者は言語の異なることが非常に不幸なことだと感じていました。また、言語が異なっていることが人間といういわば家族であるべきものをばらばらにして、敵対関係に分けてしまう、唯一のあるいは少なくとも主な理由であると、町を一歩歩くごとに確信していました。私は理想主義者として教育されました。人間はみな兄弟であると教えられました。ところが、路上や広場では一歩進むたびに次のように感じました。人類というものは存在しておらず、いるのはロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人、...という個々の人種だけだ、と。このことはいつも私の幼い心をひどく悩ませました。多くの人はおそらく子供のこの『世界のための悩み』をあざ笑うことでしょうが。私には『おとな』が何でもできる能力を持っているように思われたので、おとなになったら必ずこの悪をなくしてやろうと、私は自分に向かって繰り返し言っていました。」
 ミショーに宛てた手紙(21.02.05)(L.1, p.107)で、Zは自分の心をうち明け、密かに告白しています。「私の生活と私の思想の経歴を詳しくお話しするには、私がユダヤ人であることを強調しないかぎりほとんど不可能です。」
 「私がゲットーのユダヤ人でなかったら、人類統一の思想は絶対に私の頭に浮かんでこなかったでしょうし、その思想を一生涯のあいだ片時も忘れないなどということはおきなかったでしょう。民族の離散という不幸なことを、ゲットーのユダヤ人ほど強く感じる人はいないでしょう。どこの国の言語でもない、中立的人間の言語が必要なことを、ユダヤ人ほどに感じる人はいないのです。すでに死語になっているヘブライ語で神に祈りをすることがユダヤ人には義務づけられていますし、ユダヤ人を追放している種族の言語によって教育を受けています。また、全世界に同じ苦しみを味わっているユダヤ人たちがいますが、お互いに言語が違うのでその人たちと理解し合うこともできないのです。私は今ユダヤ民族の立場やこの立場が私の目的や努力に与える影響について、あなたに詳しく説明する時間も忍耐力も持ち合わせていません。私はあなたにただ簡単に次のように申し上げましょう。私がユダヤ人であるということが、小さいときから一つの主な思想と夢、つまり人類の統一という夢に身も心も捧げてきた主な理由だったのです。」
 「この思想は私の一生の本質であり目的なのです。Eというのはこの思想のほんの一部でしかなく、私は残り全部について考え、夢を見続けています。そして遅かれ早かれ(多分もうすぐ)Eが私を必要としなくなったとき、私は一つのプランをもって乗り出すでしょう。そのプランについてはもう長い間準備してしていますし、別の機会にあなたにお知らせします。私が『ヒレル主義』と名付けているこのプランは、すべての民族と宗教を兄弟として統一できる精神的な架け橋を創ることにあります。何か新しい教義を創ったり、また民衆が自分たちの今までの宗教を捨てたりしないで です。私のプランは宗教の統一を創りだそうというものです。その統一は、存在するすべての宗教を平和的に受け入れ、お互いに争いをなくすものなのです。例えば、一つの国家が異なった別々の家族を受け入れ、どの家族も自分たちの家の伝統にしたがって行動できるのに似ています。」
 Zが述べている上記のことは、行動についての説明ですが、彼の反応のいちばん深い心理的な動機は、ジュネーブでの第2回世界大会(1906)での演説の中にあります(OV. p.369)。
「私がまだ小さな子供だったとき、私はビャウィストクで同じ国、同じ町の人たちを分けている互いの疎外性を見て心を痛めていました。そして何年かしたらすべては変わって、よくなるだろうと夢見ておりました。そして実際にその何年かが過ぎました。しかし、美しい夢の代わりに、私は恐ろしい現実を見ることになったのです。私が生まれた不幸な町の通りでは、粗暴な人たちが最も残忍な野獣のように、おとなしい住人たちに斧や鉄棒をもって襲いかかったのです。住人たちに罪があるとしたら、これら粗暴な人たちとは違った言葉を話し、違った民族宗教をもっていたことだけですのに。そのために、頭を砕かれ、男も女も、衰弱した年寄りも、罪のない子供も目を突き刺されたのです。私は野獣のようなビャウィストクの大量殺戮について詳しくお話ししようとは思いません。私はエスペランティストとしてのあたなたちに、私たちが崩そうとしている民族間の壁はまだきわめて高くて厚いということだけを申し述べておきたいと思います。」
                                        (この章は中塚公夫訳)   
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