第13章 歴史におけるE普及運動の目的          
                                                                (この章前半は小林司訳)

1.エスペラントと大きな力を持っている言語

 Eが単なる国際語として提案されたのであれば、Eを採用するようにというエスペランティストの努力に値しません。事実上は英米語が、国家、銀行、航空などのレベルで既に国際語になっています。米国の力のおかげで英米語が次第に広まっています。なぜでしょうか?米国の軍事力とか経済力とか、英語を母語とする人の人口が多いというだけで、そうなったわけではありません。もっと多くの人が中国語を話していますし、カスティリア語ないしスペイン語を使っている人も莫大な数に上りますが、だからといって、それらの言語が広まるわけではなくて、逆に足踏み状態なのです。使う人の数が多いから英米語が広まるのではなくて、広まる主な要素は、米国が資本主義の発展の親玉であり、科学や技術の一大中心だからなのです。また、今日では日本が科学と技術の発達に基づいて工業と貿易の膨張を実現したので、日本語が日本人以外の人々によって学ばれています。
 ロシア語が英米語と競争しているのは、ソビエトが共産主義の拡張の中心だからです。ロシアの共産主義が世界に羽をのばすならば、ロシア語は共産圏での国際語になるでしょう。ロシアの勢力が米国の勢力をしのぐならば、ロシア語が事実上の国際語になり、公式に世界支配の中心がモスクアになるでしょう。今日まで、言語に関して歴史的な縮小はそのように行われてきたのでした。
 第一時世界大戦前にはフランス語が国際語になるのにほとんど成功したようにみえ、事実上の外交用語だったのです。ツァー時代のロシア帝国の知識人たちでさえもがフランス語を学び、それも押しつけによるわけではなくて、フランス語の声望ゆえに、またフランス語によってもたらされている広範な文献によって、自発的な学習が行われたのでした。 Eは三つの重要な特徴を持っています。それは学びやすいこと、どの言語にも属していないという中立性、特に誰かが得をするということがない平等さ、という三つです。ですから少数民族の言語を話している人々によって受け容れられています。小さな国や、国を持たない人たちは、多分英米語に反発しているのかもしれません。けれども、米国が科学と技術の頂点に立ち、銀行資本や国際企業を支配している、などのことが続く間は、小国の反動も英米語が支配している現状を変える、ことにはならないでしょう。しかし、いつか歴史の進展によって、他のもっと優れた力の中心が現れれば、その民族語が次第に国際語になっていき、英米語はフランス語の後を追ってその影響力を失うでしょう。フランコ独裁のスペインにおいておきたことを私たちは銘記しておきたいものです。それまではフランス語と英語学習が大学進学資格だったのに代わって、フランコ独裁政権下ではドイツ語とイタリア語を教えたし、もしドイツとイタリアの枢軸国が第2次世界大戦で戦勝国になっていれば、今でもそれが続いているでしょう。
 ところで、有効な民主的な国際機関がなければ、弱小諸国は米ソ、ないしは将来の力の中心になる国の、影響下にとどまるほかありません。少数民族の反動は過ぎ去った歴史的過去へ世界を引き戻すことはできず、そのような引き戻そうという態度は、歴史の現実の前ではセンチメンタルなロマンチシズムとして、何の影響も及ぼしません。
 それならば、Eの役割は何なのでしょうか。もし、米ソの影響から少数民族を守るというEの伝統を抜きにしては、平等と同権の主張は成功するチャンスがありません。その他に、学習しやすいという点も絶対とはいえません。書いたり話したりする面で、Eをまるで自分の母語のように流暢に使いこなすのは、それほど簡単にできることではありません。英米語に比べれば少ない努力でEを学べるのは確かですが、Eは少数の人が使っている言語であって、それで生活を支えることはできないし、いわゆる現実主義の人はEを学ぼうとしないのが現状です。技師、科学者、技術者、などには、現在英語が必要なのです。もし、彼らがEを学ぼうというのならば、いわゆる現実主義以外の動機付けが必要です。
 Eが働く分野は、英米語なりロシア語、日本語、中国語なりが働けない特殊な分野であって、地上に山ほどある沢山の言語の中で少数言語が働く分野です。Eが働く分野は現実面というよりは、むしろイデオロギーの分野なのです。
 現代史で隆盛になったイデオロギーは民族主義です。だからこそ、広範囲で恐るべき戦争が世界を苦しめ、莫大な無数の人たちが難民になったり死んだりしています。現代史でもう一つ栄えたのはマルクス主義でした。それは、Eが生まれる少し前に生まれて、世界のほぼ半分を支配しました。昔、キリスト教が広まり、その後には西アジアとアフリカとでイスラム教が広まりました。現在、Eが歴史的要因として役割を果たす瞬間が来ています。この核時代において、戦争はもはや歴史を決める主な要因にはなりえず、それどころか地球の上から生命を消してしまうものです。民族主義もいまや重要ではなくなりました。強者の民族主義が帝国主義だったのです。弱者の民族主義は、戦争や植民地主義などが栄えた過去への郷愁です。現代は科学と技術の時代であって、神秘主義は大多数の人々にとってもはや過去のものになりましたから、現代の宗教はもはや歴史を決める要因ではありません。 単なる言語に過ぎないEも、歴史を変える要因になるなどとは言えません。つまり、単なる国際語として現れても、あいまいな神秘さをまとったイデオロギーとして現れても、事実上既に機会を失っているのです。Eの役割は、社会的イデオロギーの枠内で働くことであり、あるいはさらにいいのは、新しい文明をもたらす可能性のある思想の力として働くことなのです。
 現在、資本主義ないし共産主義のイデオロギーは、独裁で動けなくなっているので、将来ずっと続く社会のモデルとしては役立ちません。資本主義も共産主義も頂点に達して、よどんでいる歴史的要因であり、新しい全世界の文明をもたらす力をもっていません。新しい人間らしい文明をもたらすものとして、平等と自由のうちに人々を一つにして、経済的連帯と生態的平衡への配慮のために行動するEは、歴史上で最初の計画へと移行することができるのです。宗教的、社会的、政治的な過去においての、あらゆる他の精神を伝える道具の上に立つ意識的な精神運動として、新しい感覚をもたらすものとして、Eは "La Espero"が示しているような全世界的な新しい文明のための特別な歴史的な要素になるはずです。                (ここまでは小林 司訳)

2.言語の精神とエスペラントの精神                           (ここより後は加藤 厳訳)

 民族を特徴づけている、最もはっきりしたしるしは使っている言語です。言語は外に表れている記号であって、人々がどの民族に属しているかを明らかに示しています。今日、人種的には人々は今もって多様ですが、民族的には、どの人種をとってみても、差異はそれ程ではありません。というのは、大まかな特徴からみて、純粋な民族は存在しないからです。太古以来、人々は往来を繰り返しており、民族は混ざり合い、その結果、だれがどの民族の出自なのかを言い当てるのは困難です。 しかし、言語をみれば、だれがどの民族に属するかはわかります。それでも民族的にどの人種に属しているのかを決めるのは無理です。なぜならば、2000年前、その人の祖先が、どの民族に属していたかを知らないからです。私たちの祖先はずっと古いし、また彼らの民族性も入り混じっているのですから。おそらく2000年または1万年後には、私たちの誰一人として、その人種も判らなくなるでしょう。
  現在、先史時代に話されていた言語のことはよくわかりません。ただ単に、現在の言語は、古代から発展してきたものだ、といえるだけです。文献学的な研究で、広範囲にわたる言語についてその由来や多方面への分化について知ることができます。たとえば、ラテン語では、その由来や拡散そしてローマ帝国の誕生、発展、崩壊に伴っての、現在のラテン系言語(イタリア語、スペイン語など)への分化などです。ローマ帝国内では、人々は民族的に混ざり合い、その結果として、後にラテン系言語が出現したとしても、それは民族的な要因に基づく自然的なものではなくて、歴史的な要因が発展させたものなのです。 
 言語の展開と進化は歴史的な出来事に直接、関係しています。 言語は文明や文化に属していても、生理学には属しません。たとえば、ポエニ戦役で、カルタゴがローマを破ったと想像してみましょう。そうすると、西ヨーロッパでは、たとえ民族的に現在と大きな相違がないとしても、そこで話される言語はラテン系のものではないでしょう。なぜなら、カルタゴ人は征服者であり、また支配者であっても西ヨーロッパでは少数民族だからです。 このように、歴史的な観点では、現在使われている諸言語は、戦争や文明そして文化的な要因による結果なのです。このことから、言語は、ある限定された領土に居住する人々の過去の歴史的諸事情を反映しており、言語の発展や言語に影響を及ぼした要因としては、特に習俗、宗教それに政治が重要です。 
  大帝国は広大な言語領域で特徴づけられます。大帝国の分裂はまた、その統一的な言語が多数の方言へ分化し、場合によっては新しい言語が出現することになります。ローマ帝国の崩壊もまた、ラテン語を多数の方言へと解体し、このことが中世の封建制を特徴づけます。封建制が絶対君主制へ発展するにつれ、国民国家が生まれ、このことから国家語の生成と国家を持たない言語が方言へ退化することが始まるのです。例えば、北フランスによるプロヴァンス地方の征服は、アルビジョワ十字軍やカタリ派への攻撃でなされ、それはトゥラバドゥールや詩人からその言語を奪うことにつながりました。その言語は軍事的な出来事の結果、方言となり、他方では北フランスの方言にすぎなかった当時の一言語が発展して、現在の公用語になったのです。いまだ国家を形成していない民族であっても、その政治力が、幸いにも成功すれば、その言葉は方言から一国の言語へと転化し、つまり帝国の言語が、多くの新しく独立した民族の言語へと分化するのです。 また言語は一般的に地理的な条件によっても相違します。山岳に富んだ国の辞典には、山に関する語彙が、平坦な地形の国の辞典よりも多くみられるし、その逆も言えます。そのような事情は、南か北か、また赤道に位置するかなどでも同様です。つまり、言語は地理的な環境や、現在までその命脈を支え続けた民衆または地域がたどった政治的な軌跡を反映しています。大帝国が形成されれば、多様な方言を一つの言語にまとめます。その帝国が衰退し離散すれば、その言語は多様化し、方言化します。そこでは、大国の民族主義的な拡張が、軍事や政治経済同様に言語の面でも見られます。それが民族語の精神なのです。
 国家を持たない民族であっても、その民族主義が再興されれば、まず最初の努力目標は自分たちの方言を再生し、文章語を作り出すことなのです。それには民族主義的な衝動のほかに、文学の興隆が非常に重要です。
 つまり、言語は無色透明な表現手段ではなくて、政治的な要因を含んでおり、その結果、国家の栄枯盛衰や政治的な出来事を、まちがいなく反映しています。
 結局、言語は個々の集団の鏡であり、その国民を特徴づけるものです。しかし、現在、人々が最も関心を持つべきことは何でしょうか。過去を研究することは、未来を準備するために必要です。過去は過ぎ去ったものであり、私たちの願望や意欲によって変えることはできません。私たちは過去を思い出して研究しますが、それは夢想することとは別問題です。誰にとっても、大切なのは未来です。そして未来は、過去と同じく、偶然によって展開します。まさに、そのような展開が、戦争や暴力的な革命や多くの犯罪さえもが満ちみちた過去を生んできたのです。もし、私たちがより良い社会を望むのであれば、──この願望は、人間としては当然のことであり、むしろ義務でさえありますが──、もし私たちが核戦争による文明の崩壊や絶滅なしに、この危機的な時代を乗り越えようとするならば、未来は、Zが言っているように、頭脳と心によって、意識的に築かれねばなりません。そうすることによって、私たちはEの精神に到達するのです。 この言語は、平和と自由、そして連帯の輪に統一された人類のために、新しい文明を創造する精神的支柱になるはずのものです。                    

3. エスペラント文学               

 「学習書やお知らせ等は必要であり、また文学も、それに劣らず必要です。」「私たちの理念のために闘っている人たちは、すでによく知っていることですが、私たちの、どんな立派な理論も、新刊の重要な作品には、その影響力でかなわない、ということです。」(ザメンホフ著作集p205−209、「我々の文学」より)
 Zは文法にはあまりこだわりませんでした。文法を簡単に16か条にまとめましたが、そのことを喧伝しませんでした。Unuelという筆名で著した「国際語思想の本質と将来」では、義務的にEを擁護していますが、Eの可能性を実証的に示すことの重要性については多大の注意を払っています。「模範文集」では、わずか数ページが言語の学習にさかれているだけで、実際16ページ31課、その他の400数頁が文学、とくに翻訳です。 Eが単なる記号ではなくて、言語として完全に適していることを示すためには、翻訳が最も適しているのです。翻訳によって、その文学語としての質が認められます。またEを学び始めた人や一般の人たちも、それによって、Eが誕生したときからすでに、文学語であったことを確信できます。それ以外にも、翻訳は原作よりももっと難かしいということがあります。というのは、翻訳者は、翻訳文を原文に合わせなければならず、しかも異なった言語と文体でそれを行わなければならないのです。また翻訳では、使った言語が、概念の多様な表出にあたって、どの程度の柔軟さ、表現力、適応性があるのか、原作の場合よりも、もっとはっきりとわかってしまいます。また、優秀な原作には、優秀な翻訳家が必要ですが、当時は、Zを除けは、少数の初心者がいるだけだったのです。とはいえ、Eの際立った役割が、翻訳だけだったとすれば、Eは補助語としての役割から永久に抜け出すことはできなかったでしょう。
 すべての言語の傑作が、ただひとつの国際語で周知されれば結構なことです。とくに小言語の作品は、世界的に知られていないので、歓迎です。その意味でも、Eは橋渡し言語として小言語から小言語への翻訳が求められます。しかし、そのような活動では、Eはあくまでも原作の言語精神を普及するだけであって、E独自のものではありません。
 Eは固有の精神をもっており、それは民族語に特有なものとは異なっています。Eの精神とは、諸国民の相互理解です。また、世界は平和、自由、連帯のもとに統一されねばならず、そこで樹立される斬新な文明に向けて、Eは新しい感覚を担う主体となることです。そのような新しい感覚は、民族語によって書かれた多くの傑作によっても、もたらされますが、しかし、そこでは付随的に取り扱われており、Eのように主題とはなっていません。 重要なことは、私たちがEで立派な作品を著し、それを各民族語に翻訳することです。Eは固有の精神を持たねばならず、また固有の活動も必要とします。そして、その発展のためにはE作家がまず、努力すべきですが、Eを活用する人は、だれでも一般的にそうすべきでしょう。
 普通の人は一般的に、自分に緊急かつ直接的な関係のない事柄には興味を示さず、また、このような傾向から人類とか未来について全く関心を抱きません。そのような雰囲気では、新しい感覚とか世界平和や人類の未来などについて語ることは無意味です。もし、今までEが人々の記憶に残るほどの歴史的なな出来事として認められていないとすれば、それは、結局、広範な大衆がEの呼びかけに対して耳を貸そうとしなかったためにほかなりません。もしまた、ZによるEについての思想が、E界ですら成功しなかったとすれば、普通の人々のみならず、多くのエスペランティストの狭い視野の結果でもあります。Eは新しい感覚を担う主体としてよりも、実用性や翻訳での経済性や補助語としての価値の方が宣伝されています。いま必要なことは、この新しい感覚ということが広く大衆に受け容れられるように世界的な規模でエスペランティストが気持を整えることです。そのためには、夢想やユートピアや理想主義は不必要です。文明が現在おかれている状況そのものが、新しい文明への飛躍を促しており、それは単なる絵空事とは異なり、意識と義務の問題です。つまり、既存の人権を補完する、今はまだ規約化はされていない人権に関することです。エスペランティストが、どのように人権に関わっていくのか、適切な対応が求められているのです。
 現に、現在、一般的な思考態度を、人類と呼ぶ広大な地平にまで押し広げること。その世界規模での実現まで新しい感覚を蒔きつづけること。これがE普及運動が自己に課す特有の責務です。それがまた、Eの精神でもあり、Eの目的、思想、言語を成功させる道すじでもあります。

4. E普及運動のメッセージ

  新石器時代から1万年、核時代の現代にいたるまで続いた歴史区分はおわり、私たちは今まで経験したことのない全く新しい、以前の状況からは予想もできない時代に直面しています。確かに、物理的には、世界はつながっています。しかし精神的には、いまでも以前と同様にバラバラです。迫りくる資源の枯渇にも人々は無頓着で、また経済的に相互依存の世界に住みながら、いまだに対立する政治のもとで争っています。しかも、全ての問題が地球的な広がりをもち、その解決には相互の協力が必要だというときにです。世界にはまとまりがなく、今もって、明確な目標をもった未来も、それに到る道筋を示すだけの、統一的な精神力をも欠いており、また、それを実現するための努力も持ちあわせていません。 
 世界はすでに物理的にはつながっていますが、人々は今でも、過去のイデオロギーに培われています。それらのイデオロギーは過去の諸条件から形成されたもので、今日的な問題を解決するには不適当なものです。多くの人は、過去を顧みて,想像の楽園を夢見ますが、同様に中世へのロマンチックな想いから過去のナショナリズムを復活しようとします。しかしながら、現代の必要を満たすには、過去に憧れるだけでは役に立たず、新しい文明をうち立てねばなりません。その文明は、すでに実現された統合やこれから必要とされる集団的活動にふさわしい文化を伴ったものでなければなりません。核エネルギー、サイバネティックス、コンピュータ、ロポット、宇宙旅行や人間の無関心から破滅の危機にある私たちの共通の家としての自然への関与等です。
 そう。たしかに、いま人類は、かって経験したことのない、破滅かそれとも新しい繁栄の世紀かの分岐点に立っているのです。この危機は、たとえいずれの方向で解決されるにしても、現在の歴史の歩みで自然にもたらされるとは思えません。もし人々が無関心であり続ければ、おそらく破滅に向かうでしょうし、結局、人々の行動にかかっています。人間によって見出された力は、パンドラの箱のように、それを開いた者自身を死に追いやるのです。 現在の危機は世界的であり、今までの歴史に類をみないものですが、今のような、全人類とまでは言わないまでも、文明の中心ともいえる大部分を襲ったものとしては、最初のものではありません。
 過去には、いくつかの集団では、大衆を動員し、これらの危機から脱出させた精神的な運動が現れています。ローマ帝国の崩壊ではキリスト教が出現しました。私たち人間は、神の前では、富や権力に関わらず等しく責任がある、という主張は、当時としては全く新しい考え方でした。私たち全員、つまり人類は共通の男女から由来する、という考えは歴史を通じて最も重要な精神的な変化です。このような積極的な変化を、宗教という形でキリスト教がもたらしました。というのは、当時の無知に満ちた環境では、精神的な運動は宗教という形をとるよりほかなかったのです。キリスト教のほかにも、その前後には大きな宗教が世界に広がりました。ヒンズー教、儒教、イスラム教、それにキリスト教の宗教改革。確かに、これらの宗教は戦争や多くの、多数の死者を伴う災厄をなくすことはできませんでしたが、数歩の前進ではありました。というのは、ひとは少なくとも義務に従って定式化された、常なる努力によってしか非のうち所のない完全な人間性には決して到達できないからです。また、現代の社会的な思想は、その原理をこれらのキリスト教的な原理に負っているのではないでしょうか。資本主義の進化の過程で、その経済的危機があらわれ、それに対してマルクス主義も宗教的な役割りを果たしたといえます。というのは、マルクス主義は、科学的というより、もっと感情的で独断に満ちているのです。カール・マルクスの歴史的唯物論は、唯物論には違いないのですが、だからといって唯物論に結びつくというよりも、選ばれた労働者階級があるという確実な幻想に結びついているのです。 心の深奥では、人はいつでも、多かれ少なかれ神秘的です。Zは世界を支配している未知の力について語っています。アインシュタインは宇宙教について語っています。科学が進歩すればするほど、多くの新しい疑問が形をあらわし、結局のところ、多くの著名な知識人が知りえたことは、「私たちは何も知っていない」ということです。偉大な真実は、私たちの精神の外に取り残されたままです。新しい感覚は確かにある種の神秘的な性質をもっていますが、新しい文明の基礎となるには問題はありません。
  人間は思考と感情、言い換えれば、科学と芸術であり、おそらく最もすぐれた芸術は、生きるという複雑な技でしょう。そして、より以上に困難な、共生ということでしょう。
 ZはEをつくり、それに新しい感覚のメッセージである「人類人主義」を託しました。その点では、ある程度、神秘的な感覚を伴っています。別の面では、Eは近代の社会運動、――自由、友愛、平等の標語で知られるフランス革命やマルクス主義でのカール・マルクスの次の主張にさへ結びついています。つまり、「哲学者は社会的諸要因を発見するだけでなく、それを改変しなければならない」ということです。人々に対して、国際語に基づき相互理解を達成して世界平和を実現しよう、と提案するのは私たちが行動するにあたって必要な態度であり、単なる願望ではありません。そこでは、EとE普及運動とは、新しい文明を導入するための最も重要な要因となり、現在の危機を成功裏に解決するでしょう。
 このメッセージとともにEが普及し、新しい感覚は新しい文明で具体化するでしょう。また現実の政治的、社会的な諸条件を改変せずにはおかないでしょう。そして真に民主的な国際連合が実現するでしょう。また、世界的な規模に拡大された共通市場をもった欧州連合が実現し、対立する二大陣営による世界分割も終わるでしょう。全人類的な問題のまえでは、この分割の原因はとるに足りません。実に、私たちは一つの家族であり、前述の技、つまり、いままでの単なる生きるだけの技のほかに、「世界的規模で共生する」という大変困難な技を学ばなければなりません。というのも、共存することはすでに時代遅れだからです。
 現代の精神的な運動の中では、社会的なものをも含めて、E普及運動は全人類を視野に入れている点で、ユニークな運動であり、そこにこそ、将来に向かっての最大のメッセージがあります。「民衆はうちとけて、大きな家族のまどいを作る」("La Espero"のうちの1節)                                       
                                                                     (この章は加藤 厳訳)
                                    (本全体の おわり)

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