第12章  世界の諸問題の整理        (この章は板垣 暁子訳)

1.戦争そして平和の組織

 戦争という事態は、人類の破滅を引きおこすことができるまでに進化しました。平和の要因はその程度までには進化していません。しかも、一方で科学や技術の繁栄は原子エネルギーと核エネルギーとをもたらしました。疑いもなく私たちの世界は小さくなってきています。経済は相互依存で、自然環境破壊が脅威となっています。何はともあれ共通の人類の行動にとりかかるためには、国家は役に立たないことを露呈しています。ところで抑圧者と被抑圧者への人間の分離は依然として社会を分離させ、共生を破壊するぞと脅かす闘争を創りだしています。
 戦争は確実に人類を無に帰すことができ、社会の分散傾向は戦争の別の形である暴力的革命を生み出したり、あるいは社会の癌としてテロリズムの脇道へと進んでいく可能性ももっています。実際人間は矛盾にみちています。彼らは感傷的な感動あるいは人間的な感性を有しています。つまり、愛、同情、キリスト教の説く愛、誰かの力になりたいと思う心などの。しかしまた権力や上からの支配欲への性向のように強く根付いている別の本能をも併せもっています。
 数千年にわたり原人は野生動物たちと格闘してきました。そうした動物たちが征服されると人間は数を増し、その格闘は人間のグループ間の戦いへと変化し、その形の中に私たちは依然としているのです。
 部族は国家群になり民衆への弾圧は植民地主義という名をとり、他の人々への従属は独裁制に、また社会階級による社会の階層性にさえはっきりと見てとれます。
 そうした状況からの出口は永久に見つからないのでしょうか?もし人間が理性的な存在でなければ多分そうでしょう! ところで、こうした社会の諸問題は片づけることができます。それは知識、善意と適正な行動のための集団的準備態勢次第なのです。
 連帯と善意と愛を人々に彫り込むために、攻撃性と支配欲にブレーキをかけるには、人々を教育することが最優先の仕事です。集団的行動と相互理解に関しては、あらゆる人に平等な理解の道具が必要だということがはっきりと感じ取れます。そこに言語エスペラントの存在意義があるのです。しかし、それ一つだけでは不十分です。なぜなら、組織しなければ平和環境の雰囲気は失敗に終わるからです。
 戦争は単なる暴力ではなくて、組織された暴力です。それとまったく同様に、平和もまた組織されなければなりません。
 戦争がおきる前に、人は見たところ解決できない大きなディレンマの状態に置かれます。平和を志向する善意に満ちた感情豊かな人々はしばしば少数派ですが、たとえ多数派であってさえ、彼らはたいてい戦争や革命で征服され、あるいは他のテロリズムによって苦しまなければなりません。そんなわけで、単なる平和志向は大多数を征服できないままに失敗してしまいます。
 平和志向の気持ちは、世界に不足していたわけではありません。キリスト教主義は本質的に平和志向です。しかし、その最大限の行き着いたところは、聖職者たちが直接戦闘に加わらなかったというだけのことです。E普及運動には平和志向だけで十分でしょうか?たしかに平和志向は基礎です。E普及運動は、ある確固とした文化の段階、その基礎の上に社会組織をうち立てることができるような、そうした高い文化をもたなければなりません。人類の大多数の自由意志による願望の基礎の上に未来の世界統一を実現するために。 現在、国家より大きい規模の組織で二つの試みが存在しています。世界規模で「国際連合」と、ヨーロッパ規模で「ヨーロッパ共同体」という二つです。もし第2次世界大戦後E普及運動の「新しい感じ」が大量に東洋にも西洋にも等しく広がっていたら、平和が閉ざされたり、いわゆる冷戦がやってきたりしなかったでしょうか?ヨーロッパ共同体は少しずつ大西洋からウラル海まで、やがては全世界へと広げてくことはできないでしょうか?世界的機関の組織化の芽生えは、すでに国際連合憲章を考案した知識人たちによって予見されていました。しかし民衆は世界組織の重要性を自覚していなかったのです。Zによって提案された「新しい感覚」が世界に欠けているのです。
 E普及運動は新しい文明の文化として、「新しい感覚」をもたらさなければなりません。その「新しい感覚」は人々を世界的組織へと向かわせなければなりません。協力し共に助け合い、平和を組織し、自由を組織する方向に向かって。そして、それこそが、ほかでもない、全世界的文明なのです。

2.暴力による革命

 時が移る中で、社会現象である戦争はさまざまなかたちで認められていました。おそらく、かつて太古にあっては、戦争による征服のみが弱者の上に立つ強者の権利としてその正当性をもっていました。しかし、単なる暴力は、倫理が発達すると少しずつその正当性を失いました。
 根底において戦争は人間集団の競争の最たるもの以外の何ものでもない、ということは真実です。けれども、私たちは一組の同じ男女から由来しており、人類は一つの家族なのだと認めると、単なる暴力の正当性についての議論はふさわしいものではありません。いわゆる生命維持に必要な空間を征服するための古代の拡張戦争、のちに勝者たちが奴隷の労働によって生活しようとしての征服。分割する封建社会では権力のための戦争、のちに宗教改革時代の宗教戦争、近代では国家間の戦争、そして現代では全世界の支配権あるいは全世界帝国をめざした好戦的な圧力。広範な広がりをもつ人間集団にとって、そのような戦争はもはや正当化できないものになってしまっています。けれども、そうした広範な人間集団自体も依然として、他の形の戦闘を正当化できるものと考えています。革命です。
 時とともに戦争の正当化も多様です。そうした新しい正当化の形、いわゆる革命の分析なしでは、戦争の過去の要因の研究をしても無意味です。二つの見地──革命を拡大するための外的な、そして市民戦争としての内的な見地から。
 暴力的社会革命は避けられないのでしょうか?それらは暴力によっているけれど、社会の進展にとって進歩なのでしょうか?暴力以外に社会変革の他の形はあり得ないのでしょうか?それには長い過程が必要になるかもしれません。しかし、要するに三つの大革命があったと言うことができます。つまりフランス革命、ロシア革命、中国革命です。それらすべてにそれぞれの拡張と停滞とその結果とがありました。流血と破壊の莫大な代価のほかに、フランス革命はナポレオンを生みだし、ロシア革命はスターリンを生み出し、中国革命はおそらくすでにその段階を通り越しました。あらゆる革命はのちには新たな保守主義へと逆転し、そしてついには革命前と同様な状態に後退させる似たりよったりの特徴をもっています。自分の社会の発展を指導する術を知っていた国々は、そうした革命を経た国々に比べると、多くの死や破壊の悲劇なしで最終的にずっと繁栄しました。
 E普及運動の「新しい感覚」の語義において、人々は普通の戦争とひとしく革命の戦いをも拒否しなければなりませんし、人間と人類の問題が理性的で人道的な手段によって整理されるように努力しなければなりません。まさにその土台の上に、新たな全世界的文明の基礎が築かれなければなりません。人類の暴力的統一は、全世界的帝国における国家集団の戦争の勝利の結果かもしれませんし、最も弾圧的な独裁制によるものでしょう。時のうつろいは、原子―核戦争による全滅か、あるいは唯一の支配権力をもつ広大な帝国…へと導きます。それに抗して、人はすぐに過去の国籍を復活させるために反応するかもしれません、現在みられるような、国家を持たない少数派の国家主義のように。
 強者たちの国家主義は、今やすでに祖国の祭壇に命をささげるために多くの人間を熱狂させるに足る威力を失っています。しかし弱者たちの国家主義が成長していますし、暴力的な革命が社会問題解決のため、また戦争自体の解決策としていまだに広く人々の集団の中にその威力を保っています。全世界的暴力による革命の勝利のあと、戦争が追放されると人々は信じています。そうした革命の威信は、宗教の奇跡の威信と近縁関係にあります。そこには社会的要因の単純化があります。人間を善人と悪人──後者は罪人、に分けるという信仰に結びついた単純化が。事実は、私たち人間すべてが動物という起源から発している同じ由来の性質をもっているということです。私たちの本能を人間性あふれる感覚へと導くための文化的努力の中には、個々の人間に関わると同じように人間集団あるいは人間社会に関わる多くの問題が横たわっています。
 暴力による革命は攻撃本能を露呈させて、社会を混乱に陥れ、反乱段階のあとには無秩序がきます。そして、そのあとの継続的な独裁体制、そして円環は閉じられます。またそれを繰り返しますか?
 暴力的威信はフランス革命に端を発しています、人間の平等、自由、友愛の源泉として。しかしそれはナポレオンを生みました。義務兵役を伴う強大な軍隊、国家主義、全体主義もまたフランス革命の遺産でした。イギリスはフランス革命に類した革命を経ずに民主主義へと進展しました。アメリカ合衆国は、フランス革命より前に民主主義を確立しました。しかしながら、重要なことは、戦争を説明するために過去に後戻りすることではありません。そうではなくて、二つの形の戦争──普通の戦争と暴力による革命、前者は過去の野蛮な時代の残留物であり、後者は現代の野蛮行為です──の追放が可能かどうかということがだいじなのです。その観点からすれば、Zの考えは将来へと辿るべき道を示すひときわ優れたものです。「それについて、あらゆる民族のあらゆる時代の予言者たちが夢見たような、その統一された純粋に人間的な人類が少しずつ成長していくでしょう。」

3.社会的諸問題

 世界には国家間の紛争だけではなく国家自体内部の紛争も存在しています。ビヤリストクの人々の対立分離は、Zを言語Eの創造へ、また「新しい感覚」を言葉で表すことへと駆り立てましたが、その当時のロシア帝国という国家自体の領土内にあった、言語的、宗教的、人種的紛争がそのもとにあったのです。
 人種的、宗教的、言語的分離以外に、また社会そのものの枠内での他の諸紛争があります。そのうちの一つは支配者と被支配者という階級の分離です。一般的に散発的瞬間や決まった領地内にとどまらず、支配者と被抑圧者という社会の分割は、その国家の設立時に源をもっています。それは通例 J.J.ルソーが唱えた「社会契約」によってつくられたものではなくて、外的植民地主義あるいは内的植民地主義によってつくられているからです。古代の奴隷社会、ギリシアおよびローマ帝国自体も、同様に中世の封建主義も、ずっと近代の絶対主義君主制も、社会契約によって創始されたものではないのです。しかしながら、そうした社会分割から人々は政治的民主主義へ到達しました。それを完成することで古代の支配者と被支配者の分割の過程を解決へと導くことができます。民主的社会では、それぞれの人は市民であり、人物を選びます。選ばれた人たちは、完全な民主制において集合体の唯一の行政担当者になります。
 単独の政党から成る社会組織についてはどんなことが言えましょうか? それは過去の階級社会と同じ性格をもっているといえます。その党は支配者階級として特権階級になります。特権階級として多かれ少なかれ閉ざされた世襲のものになりかねませんし、参加がよりたやすくも、より難しくもなります。単独政党の国であっても、もし多様な意見が許され、その党に自由に加入することが許され、異なる意見の持ち主が解任される危険がなければ、一党支配のそうした国であっても政治的民主主義は導入が可能でしょう。
 しかし、政府に関わる民主政治は他の社会的対立を解決しません。国の大統領の選挙では、人々は民主主義に介入できますが、その政府の選挙には直接介入できません。その同じ社会は、自分たちが働いている企業の支配に何らの影響力も持たない大多数のサラリーマンによって形成されているということがありうるのです。ところで企業の縮小、成功あるいは破産、利益、損失について責任のある主人公たち、あるいは資本の所有者たち、の間には競合する利害関係があります。そして、その企業で働いているサラリーマンたちはしばしば全く責任がなくて、たった一つの事柄、労働の短縮と給料の増加だけからなる組合闘争に傾きがちです。
 民主政治の整備と同様に、経済と工業の支配者階級と、権限をもたないサラリーマンとの近代の社会的分化の整理も可能です。そのような対立項は社会的な協同組合運動によって、あるいは資本家の匿名の改革によって、社会的な協力を可能にするため解決されなければなりません。
 古代社会には奴隷が存在しました、中世では農奴が、前世紀には無産階級が、そして現在は開発の進んだ国ではサラリーマンのほとんどは中程度の社会階級を成していますが、社会は依然として無産階級以下の階級を生み出しています。すなわち無職の者たちと底辺に近いかつかつの生活をしている者たちを。
 底辺生活階層の者たちは通例最も教育を受けていない、文化や教育程度が最も低い人たちで、権力を征服するために彼らに革命をおこせと主張することはできません。もしそうなれば、社会の退行について語れるでしょう。いわゆる無産階級の独裁制は実際は無産階級のものではなくて無産者という名前のエリート階級です。しかし無産階級の独裁制が真の無産階級の独裁制なら、それは社会における進歩なのでしょうか、逆に野蛮さへの回帰なのでしょうか?
 E普及運動の「新しい感じ」は社会問題を無視できませんし、現状における社会の進化を停滞させようと主張することもできません。今まで社会はほとんど非理性的要因によってのみ運ばれ、発展してきています。衝突、戦争、そして暴力的革命がその結果です。
「新しい感じ」はそんなわけで、「何もしない」という消極的感覚ではなくて、善意と、暴力行為を拒否しながら協同して社会的不均衡を解消するための行動精神を生み出すための、積極的な感覚なのです。その中に文化や文明における優秀性が存在しています。 すでに来た、あるいはこれから来る「新しい感覚」は、あらゆる社会的なことに対して中立的なものとは全く別の姿勢でなければなりません。つまり、平和的な手段で、全世界規模で、社会の不均衡を解消するために協力する用意のできている姿勢でなければなりません。
 「新しい感じ」は冬眠していてはなりません、そうではなくて、Zによればそれについて「あらゆる民族とあらゆる時代の予言者たちが夢見た」その新しい平和な文明へと社会を前進させるために活動しているものでなければなりません。
 
4.自然環境の挑戦

 私たちが議論してきたことすべては人間の共生に関わっています。これまで人間の相互関係は文明に関わる最も重要なことがらでした。しかし、私たち人間は、良かれ悪しかれ共生しながら地球という惑星に住んでいます。それは無限に広大ではないし、無尽蔵に食物を供給してくれるわけでもありません。さらに、人間は地球上に生きている唯一の生命体ではありません。あらゆる他の生存者たちと、地球上に生きている層を形成しながら共に生きています。残念ながら、また当然のことながら、良いあるいは激烈な自然の釣り合いのもとに、ある種の生物は他の生物を栄養にしています。実際、生命の経過を伴うそうした無限の破壊と再生の中で。
 生まれつき人は自らの生命を支えるために、物体と生命の複合体である大自然を利用しています。そして、大自然は通例自ら再生します。しかしその再生にはおのずから限度があります。簡単な例を示しましょう。肥沃でない土地に住む牧畜業の人々は、自然に増加します。もちろん彼らの生活を支えるため家畜を増やす必要があります。それらの家畜は草をたべます、そして牧草が十分でなくなるときがやってきます。牧草はなくなってしまうでしょう、地面は草もなく残ります。雨は普段から不十分でしかも時々嵐が来て土を持ち去ってしまいます。そのようにして数十年もしないうちに裸の岩だけが残ります。その状況では、人間たちは飢えて、まだ草の残っている草地を征服しようとして長く続く戦争がおこり、戦争が男性たちを殺してしまいます。男性の人数が女性より少なくなると一夫多妻が始まり、結束できた人間の集団が、しばしばたった一つの力の下に、他の人々をうち負かして服従させ支配します。しかし国は砂漠化します。人口が減り、果てしなく戦争が続き、かつて文明さえ花咲いた砂漠の国にはただ幾人かの哀れな人々だけが残ります。 小規模の例で説明したことは、人類全体にもおき得ることです。人々は広大な領域から木をすべて切ってしまうでしょう。また川と海を汚染することもできます。あらゆる原材料を使い果たすこともできます。そして、その果ては、空気を汚して呼吸できないものにすることもできます。草も木もないニューヨークのようにびっしり人の住んでいる地表全体を想像してみてください。そのような状況では空気中の酸素と炭酸ガスの間の均衡が海の調整にもかかわらず失われるかもしれません。私たちの惑星地球は、人間にとってもまた大部分の脊椎動物にとっても住めないものになるかもしれないのです。その状況では、戦争もいかなる形の競争的態度も、自然環境の不均衡を解決できません。一方で、もし人間あるいは国家のいくつかのグループが環境について配慮しても、他のグループが何もしなければ、そうした世話をする人たちは自然の不均衡を解決できません。すでに均衡が壊れている場合はなおさらです。それは原子核戦争の廃絶だけでなく、さらに人類の未来にとっての最も重要なディレンマです。そこで環境の不均衡を解決するためには、二つの条件が必要になるといえそうです。第一に人間は全体として自然環境の不均衡について意識をもちなさいということ、第二に人間は集合体として善意をもって即座に行動できるようにする、ということです。
 私たちの惑星上での生命の進化においてすでにその瞬間はやって来ています。そこで、唯一の知的存在であり、意識をもつ能力のある、自然そのものから発している人間は、自然の不均衡について意識的であるように、また自然の意識として行動しながら、耕作者がその庭を世話するように、自然に配慮するようにしましょう。待機状態は数千年も数世紀も数十年も続いてはならないのです。環境への配慮は急を要しています。
 人間がいますぐ自分の社会の障害物を整理し始めるなら、人間が自然を回復させることは可能です。もっとも高度な仕事、すなわち自然の不均衡を元に戻すことに着手できるように、人類は多様性を保ちながらも歩調を合わせなければなりません。
 人口はまだ多分二倍に増加できるでしょうが、無限には増加できません。原料を使うことはできますが、それらを使い果たすことはできません。川の水をそして海の水を毒で汚し、そしてあらゆる他の生物を無限に殺すことはできません。世界の現在の状況は新しい文明を強制しています。そしてそれはおきていること自体を意識しないまま進行しては到着せず、世界規模の人間の意識的な集団行動によって到着するものです。その行動は現在道徳的義務となっています。人間と自然の関係の新しい倫理として、また未来を前にして。疑いもなくそのような未来を準備するための最初の一歩は、世界規模でのそのための道具、すなわち相互理解のためのあらゆる人の言語Eの普及です。
                                                                    (この章は板垣暁子訳)


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