11章 エスペラント運動を統一する要因  
                                                                   (この章は板垣暁子訳)

1.「新しい感覚」とは何か

 「イラスト入りエスペラント大辞典(PIV)」を見ると、sento(感覚、気持ち)は「物質的でもないし感覚的でもない原因によってひきおこされた、快いとか、不愉快といった意識状態」とあります(定義第3項による)。また第4項には「事柄を評価し、人々を判断する、知的作業によらない、なにか直観ともいうべき能力」とあります。けれども、「感覚」は、直観によるだけでなしに、意識的な努力によっても磨くことができるし、鋭くできる、と思います。そうした錬磨によって、感覚を洗練し完全なものにできるのです。なぜなら、繊細な感じというものは、粗野な本能に比べれば、ずっと文化的なものだからです。「新しい感覚(nova sento)」を発展させるということは、普通のありふれた感覚に基づいて、人間の愛と連帯とを世界中へと広げていくために行動することに他なりません。そうした視点から、「新しい感覚」とは何なのかを分析することができます。エスペランティストの聖歌である”La Espero(希望)”の詩は、しばしば歌われるにもかかわらず、分析されたことがあまりないのですが、この詩を読むと、ザメンホフ(Z)が「新しい感覚」という言葉で何を意味しようとしていたのかがよくわかります。そこで韻文詩「希望」をその節ごとに分析してみましょう。(ザメンホフ作「希望」: 日本語訳は 朝比賀 昇著「世界をひとつの言葉で」国土社 p.155-157より引用)

第1節 世界の中へ新しい感覚が生まれた、
    世界中を力強い呼び声が渡っていく。
    追い風のつばさ(翼)にのせて
    いまこそとばせ、ここかしこに。
 Eという言葉によってもたらされた強い呼びかけによって、全世界に「新しい感覚」が 広がっていきます。

第2節 血を望むつるぎ(剣)のほうへ
    その呼び声は人類家族を導びくのではなく
    とわ(永久)に戦っている世界に
    尊い調和をもたらす。
 その「新しい感覚」は戦いの剣を嫌悪し永遠に争っている世界に神聖な調和を約束します。

第3節 希望の旗印のもとに
    平和の闘士がつど(集)って
    しごとはすくすくとの伸びて行く
    希望をいだ(抱)く人たちの手によって
 エスペランティストたちの仕事によって希望の神聖なしるしのもと、ことを急速に成長 させるために平和の戦士たちが集まります。その仕事とは平和であり、その平和は、平 和の戦士たちによってもたらされます。彼らは絶対に暴力的手段を用いません。

第4節 年おいた壁は堅固に立ちはだかる
    わけへだてられた民衆のあいだに。
    けれどもかたくななしょうへき(障壁)もくだ(砕)かれよう
    けだかい愛の心に打たれて。
 壁とは国境のこと、そして国家主義のこと。それらは人々を分断し、ばらばらにしま  す。そうした数千年にわたる壁は崩れ落ちて、「新しい感じ」の聖なる愛によってうち 砕かれます。

第5節 中立公平な言葉を使うことにより
    人びとはおたがいをし(識)ることができ、
    民衆はうちとけて
    大きな家族のまどい(団欒)を作る。
 中立の言葉によって、いかなる国家にとっても中立な言葉によって、人々はお互いに理解し合います、そして一致して一つの大きな家族の輪を作るでしょう。

第6節 疲れをしらぬ友たちよ
    平和のために努めよう、
    人類の美しい夢みのり
    とわ(永久)のさち(幸)をうたう日まで。
 私たちの勤勉な同士たち、エスペランティストたちは、平和の仕事に疲れを感じないでしょう。人類の美しい夢、すなわち全世界の平和が永遠の現実となるまで。
 
 E普及運動の聖歌「希望」という詩は、E運動の性格をはっきり示しています。それは本質的に思想運動であり、またそうあるべきです、そのための道具は、言語としてのEです。Eが担っている仕事は、人類の統一と、戦争を永遠になくすくことです。もしE運動が本質的にそうしたものでなければ、それはZの意志に沿うものではなくて、むしろ、とりわけフランスのエスペランティストたちの態度に沿うことになるでしょう。彼らは初期の数回のE大会を組織しました。そして、ジュネーヴの第2回大会では、圧力を加えてZの講演の一部を話させなかったのでした。Eという言語は成功したものの、その精神は殺されたのです。

2.エスペラント運動を統一したり分裂させたりする要因

 文明人は自然でもあり、また同時に文化でもあります。私たちあらゆる人間は、共通の自然の本能をもっています。私たちは本能的に食べ、眠り、生殖します。自然の生活には誕生、死、私たちの生活をうまく生き抜くための戦いなどがあります。また本能的なある種の社会性、母性愛、感情的な家族や友人間の絆などもあります。しかし社会が家族的な範囲より大きな領域に広がっていくと、文化が介入してきます。本能は私たちを原始的な状態に導くだけのものです。反抗的、暴力的であることや、権力志向、支配欲も本能的です。そうした条件のもとに、あらゆる肯定的、否定的特徴をもった社会が発展してきました。民衆という枠でいえば、社会の主たる接着剤は慣習あるいは行動の倫理です。社会の安定は慣習の上に築かれています。それなしでは共生は滅びてしまうでしょう。しかし、それは発展のない社会に関してのことです。しかし人間の集合体は、たいていは成長し続けていて、歴史的に発展し、多くの場合盲目的に、そしてそのために社会的危機へと陥り、そこからの脱出口の大部分は人間の意志、教養と意識にかかっているのです。
 こうして私たちは、現在、小さくなった世界、人口密度が高くて、迅速な伝達手段をもった、技術による大量生産物をもつ、かつて一度も見られなかった全く新しい状況の中にいるのです。私たちの時代は危機的であり、明るい未来と同程度に破滅の可能性をはらんでもいるのです。
 未来への適正な進みかたに関して人間の責任がこれほど大きい時はいまだかつてありませんでした。しかもそれについては、ありきたりの慣習や伝統的な考え方が通用しないのです。義務として、人間は社会の適正な進行について考えなければならないし、しかるべく行動するために、行くべき道を発見しなければなりません。
 短かい詩である「希望」は、疑いもなくその行くべき道を示しています。けれどもどのようにその「新しい感覚」を創造し、広めていくのでしょう。本能的感情を引き出せば十分なのでしょうか。ことはそれはど単純ではありません。人間の心には、この詩にうたわれているように不明確な感情が隠れています。それは、普通それぞれの人の身近な周囲においてのみ効果をあらわし、そのためにまた心の中にも最も奥深い利己的な態度が潜んでいます。単なるロマンティックな感傷主義では、自由に人々を一つにして、歴史上で戦争の時代を停止させるための、「新しい感覚」を全世界に広げる力はないのです。
 私たちは、文明の危機について十分に意識しなければなりません。広範な全世界の教育に取りかかれる知的状態を創る時に、精神は心へと影響を与えなければなりません。その「新しい感覚」は、その感じの上に「和気あいあいとした統一された人類」をうち立てることができるような、新しい全世界的文化を創るための、全人類のめざめた意識へと結びついたものでなければなりません。事柄全体は世界規模の教育と行動とに関係しています。人が密集した世界で平和に共生しなければならない、ということを各人が理解しなければなりません。統一をすすめる要素を養成しなければならないし、人類をばらばらにするものすべてを避けなければなりません。
 国家主義に注意。国家主義は、ある国家を他の国家から分けへだてるものを育てるのが普通です。それは自然の境界よりも強固で熱狂的な障壁を建てます。思い上がりを養成し、差異に注目させます。新たな戦争を再発させるために、過去の不和を探しもとめます。国家主義は差違を拡大します、身分証明のしるしとして。それは愛国主義につけこみます、すなわちそこで人が生まれ最初の光を目にした大地への愛に、そしてその家族、友だち、知人と共に生きている環境への愛に、権力と支配の中心というまさに国家の国家主義への奉仕に関して。そのようなわけで、それは対決への火付け役です。国家主義ないし民族主義は、近代の歴史におけるいくつかの戦争の特に主要な源泉でした。対立の別の源は思想的なものであって、政治的な面と社会的な面という二面をもっています。そうした対立は現在、工業国では過去の宗教的分派的な対立にとって代わっています。
 宗教は共生することを学びました。また、民主的な国の政治家たちは平和的な支配の交代を学びました。今日、社会には分離させる主たる要因として社会的問題が依然としてあります。階級闘争は避けられない、そして暴力によってのみ、ある階級の、支配者あるいはプロレタリアの、勝利によってしか解決できないという確信は、戦争の性格を変化させました、そして革命の名のもとでそれを正当化しました。そのような階級対立は平和的に解決できないのでしょうか?それは平和的に解決できるだけでなく是非とも平和的に解決されなければならないのです。人類を破滅させる能力をもつ核戦争の事柄全体は今やそのディレンマの中にあります。もしも階級的暴力的戦闘が不可避なら、第三次世界大戦もまた避けることができません。現在では、冷戦の終結、いわゆるプロレタリアの独裁の穏健化と非暴力的手段による解決、あるいはさらに階級対立を協調で解決することは、避けることができないようです。「新しい感覚」は人間的に対立を解決し、新しい全世界的な文明をもたらす能力のある、統一させる要素を創り出す善意によって特徴付けられなければなりません。

3.統一するための諸要因の確立
 
 一見した時、またあらゆる時代において、人が他の人を見るとき、他人を自分と似たような者と見なすことができません。おそらく白人が初めてアフリカの人を見たとき、その人を別の動物種だと思う──たとえば大きな猿だと思う──ということがおきたでしょう。しかし、白人と同じようにアフリカの人は話し、働き、生きるのです。そして、本質的に人間的に行動します。それを見て、私たちは他の人を自分と同じような人間と見るのです。けれども言語、宗教、さらに生きる手段に関してさえ差違があります。こうした違いが憎しみの原因なのでしょうか?多分、それらは特に主要な原因ではありません。人間の間の憎しみは、生活や生存のための競争の中に潜んでいます、生活の無意識な現象の中の一般的なことに。人々は確実に、まず部族という枠内で協力するようになり、やがて民族単位で、そして現在の文明の段階では国家という単位で協力するようになります。しかし、ある時には部族同士の競争があり、のちに民族の間、そしてとうとう国家集合体同士の競争がおこります。そして規模が大きくなれば、敵も多様になりました。人種、言語、習慣、宗教の違いは、競争し合う集団の形成への帰属の合図になりました。それらは、普段から協力するというよりは戦い合っているような間柄の集団だったのです。
 社会的な連続、部族、人種、国民、国家…は私たちの現在の時代ではすでに時間の外にあります。科学や技術の繁栄のおかげで、私たちの世界は小さくなって、経済は世界規模で機能し、人々は原材料をどこででも探さなければなりません。そこでは、前世紀においては植民地主義が支配しましたが、今日では国際商業と超国家企業が支配しています。原材料を採取し尽くしつつ合理的に天然資源を開発することによる、全世界にわたるあまたの問題、そして将来の環境の不均衡は、人間をすでに国家という枠を超えたところで共通の運命をもつものにしています。
 古代の戦争は殺したり奴隷を作ったりしましたが、人間という動物種を消滅させる危機をもたらすことはありませんでした。その後、世界の状況は変化し、現在では人々の間の競争が人間の存在自体を脅かしています。そして、私たちはその事実に気づかなければならないのです。人は意識し、意識をもって良心的にその歴史的な時点が、人類滅亡の代わりに文明のより高次の段階への入り口になるように行動しなければなりません。すでに人間間の競争は協力と連帯へと変化すべき時に到っているのです。すでに同じ定めをもつ人間が、生きていくための冒険で共有している運命の中での連帯へと、変化しなければなりません。
 一般に、社会が広がっていく各段階において、氏族、人種、国民、国家を通して、長い共生と同じ運命が社会的な帰属をつくっていました。
 たいてい膠着性の社会的な力は、人間たちの共同体形成に先がけるものにはならず、その後からくるものでした、なぜなら今日まで歴史においては暴力と戦争の方が精神的な結合力より有効だったからです。しかし文明の進行にとっては、そうした統一への力は暴力的なものであってはなりません。文明は、一つの社会へと世界の組織を整備していくはずの組織へと前進を実行することが必要なのです。
 それらの統一への力は暴力的であってはならないとすれば、精神的な力でなければなりません。Zは、それらの統一する精神的な力を「新しい感覚」と名付けたのです。私たちはその点での先輩をもっています。ヘブライの民が最初の人々です。彼らは十戒とともにモーゼを生み、イエスを生み、そしてそこからZとアインシュタインが出たのでした。彼らは自分たちの伝統の書物、聖書によってあらゆる人間は唯一の一組の男女から発し、それ故に彼らは一つの同じ家族に属しているのだと断言しています。
 精神で人類を一つの家族へと統一するためには、皆がそれを意識することが必要です。私たちの共通の起源を意識するだけではなくて、私たちに共通の将来の運命についての意識も必要です。将来についての研究は、あらゆる人間たちの共同行動と連帯とが必須だ、と述べています。
 私たちは分裂させる要因を鎮め、一つにする要素をはぐくまねばなりません。そして、あらゆる関係を結びつける橋を作り出さなければなりません。言葉の橋E、人類人主義という宗教の橋、そして広がっていく人類人主義に本質的に適合する他のあらゆる橋。確固としてうち立てられた民衆だけが、共通の新しい全世界的な感じの中で自発的な統一の上に基礎を築くことができるのです。
 そのテーマについてのZの考えはこうです。「人種と国際語」より抜粋。(ルドヴィキート(Ludovikito)雑記帳 p.177-181)
 「人種間の分離傾向と憎しみは全人類がひとつの言語とひとつの宗教を持つとき人類からすっかり消え去るでしょう。なぜならその時全人類は実際にたったひとつの人種を現すことになるでしょうから。」(略)
 「人類は自らの生を以下のように整えることが必要です、すなわち人は自分の言語的あるいは宗教的グループの内的生活では自らの民族語と民族宗教を保ちながらあらゆる民族間の関係においては中立で人間的な言語を使うように、そして中立的で人間的な倫理、習慣、生活の秩序に従って生きるように。」(略)
 「いかなる妥協的な一時しのぎもいかなる抜け目のない政治的な契約も人類に平和を与えることはないでしょう。しかしE普及運動が世界に強くなるほど、さまざまの人種の人々が中立的基礎に立ってより多く一緒に行き来し相互関係を多く結ぶほど、それだけいっそう彼らはお互いを理解し愛することに慣れ、ますます彼らは彼らすべてが等しい心、等しい精神、等しい理想、ひとしい苦しみと痛みをもっており、各民族間のひとつひとつの憎しみは単に野蛮な時代の残留物にすぎないと感じとるでしょう。そうした中立的土台から、そしてそうした土台からのみ、それについてあらゆる人種のあらゆる時代の予言者たちが夢見たような、その将来の統一されたそして純粋に人間的な人類が少しずつ成長していくでしょう。」(略)                       (この章は板垣暁子訳)

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