第10章 あらゆる人間関係の架け橋 (この章は山口美智雄訳)

  前に触れた「ド・ボーフロン氏宛のザメンホフの公開書簡」("Nefermita letero de Zamenhof al s-ro de Beaufront" LD-7. p.348)のなかで、ザメンホフ(Z)はこう言っています。「国際語は民族の間に、中立の「ことば」の橋を架けることを目的にしています。ホマラニスモは、それと同じような橋を「あらゆる」関係に架けようとします。ホマラニスモはE普及運動の精神をさらに強化したものにすぎません。誰もがこのことを感じてはいますが、全員が誰でもが声高に発言しようとしているわけではありません。」

1.ことばの架け橋

  Zは、それが他のあらゆる言語を越える国際語になることを願ってEを創りました。つまり他の言語を否定してしまうのではなくて、Eが第二の共通の言語として、異なった言語を話している人たちの間の中立的な架け橋となるようにと考えたのです。「第二の言語」と言ったのは、誰でもが自分の使っている第一の言語を使い続けながらも、第二の言語Eを使って、全世界の住民が理解し合うことが出来るようにという意味です。「中立的な」と言うのは、いかなる民族的な政治権力からも自由で、誰にとっても同じように自分自身のもので、誰もが平等に所有し、いかなる民族語の使用者にも特権を与えない言語という意味です。
  文化活動による世界的な超言語の導入は、歴史的発展の新しい段階を告げるものです。人類の言語が多様であるという事実は、伝達活動と人間相互の交流に深く関わる問題です。ほんの数世紀前には、人々の相互の伝達活動はほとんどありませんでした。人々の大移住はあったのですが、それは集団的で暴力的でさえありました。征服と侵略とがあって個人の移動は困難であり、旅行はまれだったのです。障害物は、地理的なものばかりではなくて、とりわけ問題なのは人間自身が作り上げた様々な障害物でした。他の人々が既に住み着いている生活圏を通過することが出来なかったので、集団による力ずくで通過したのです。地理的な障害物は人為的な障害物と相まって、様々な種族の孤立を生み出しました。その孤立性が言語の多様性に反映されているのです。元は共通の言語を話していた同じ血統の人々でさえも、分離孤立が続いたために別の言語と思われるまでに言語が違ってきてしまい、同一の語族に属することを示す共通の特徴によってのみ、同族言語であることがやっと見分けられるほどになってしまいました。
  繁栄している様々な帝国は、支配者である自国の言語を支配地域の果てまで広めました。その言語が優位を占めている間に、征服された民族の言語は屈服して単なる方言になってしまったのです。現代では伝達機器が発達したので、世界が狭くなり、交流がふえて、諸言語を他の方向へ向かわせています。少数者の言語は衰微し、強大な権力者の言語は広まっていきますが、それらの言語も互いに混じり合っていきます。もし歴史が今後も引き続き現在と同じように続くとしたら、1万年後には現代の諸言語がどうなっているかを想像してみましょう。小言語は消滅し、強大な言語は互いに混合して世界共通の混合言語になっているかもしれません。そういう混合言語から世界語が生まれる可能性はあるかもしれませんが、それはどんな言語でしょうか。粗悪な混合言語かもしれないし、その混合言語から、その時代の言語学者たちが複雑な文法と奇妙な語彙を持った世界語をひねり出すかもしれないし、いく時代か後にEに似た解決に到達して、文法を合理的なものに整え、語彙も適切なものを選んで、新しい計画言語を創造しているかもしれません。
  歴史の無自覚的展開は、現在大きな港町で見られるように、混合言語しかもたらさないでしょう。人間自身が人間の集団的展開を自覚的に方向づけていく時代が既に来ています。新しい文明は、人間自身が自覚的に創造していく以外に方法はありません。言語の多様性を解決するという問題については、既にその第一歩が踏み出されています。つまり、Eが創り出されたのです。
  Eの役割は、どのようなものであるべきでしょうか。それは当然、次の二つの分野でEが作用し続けることです。その一は、民衆の言語として旅行や商取り引きといった日常生活の様々な場で、同一地域内に混じり合って住んでいる人々が互いに異なる言語を話している場合に、民衆の言語として相互理解のための言語として利用されることです。第二は、文化的な言語あるいは文明の言語として、Eは更に二つの役割を持ちます。つまり、E以外の他の諸言語が消滅しないように守る役割と、粗悪な混合言語が生じ、広がるのを防ぐ役割です。
  こうして、Eは諸言語の間に架けられるた橋であるべきで、それと同時に言語の退化を防ぐ道具でもあるべきです。

2.宗教の架け橋

  Zは「ホマラニスモに関する宣言」(LD-9. p.467)の原テキストの第10章に、こう書いています。「宗教は心から純粋に何かを信じるものであるべきで、種族紛争の具にするべきものではないと考える。私は自分が実際に信じている宗教のみを自分の宗教と呼ぶ。ただし、私の宗教がいかなるものであろうと、それは「人類人的」な中立的・人間的原則に立つものであると明言する。それは以下の信条から成立している。
  (a)私にとっては理解し難い至高の「力」であって、物質的および精神的世界での実存の根本原因であるものを、私は「神」あるいは別の名で呼ぶことが出来る。しかし誰でもが、この「力」の本質をその人の知性や心情や、その人が属する教会の教義が示唆するとおりに様々に思い描く権利を持っていると私は考える。(以下略)
  (b)この至高の「力」が命じる本質的な戒律は、良心という形で全ての人の心に書き込まれている。この戒律のうちで、全ての人が守るべき義務のある主要な原則は、「自分に対して他の人々がしてくれればよいと望むことを、他の人々に対してもせよ」ということだと私は考える。宗教にある他の全ての戒律を私は付随的なものだと思う。その付随的な戒律を、人は誰でも自己の信じるところに従って、守る義務のある神の命令だと考える権利もあるし、様々な民族出身の人類の偉大な導師たちが、伝説などに結び付けて私たちに与えた人間味のある教訓だと考える権利もあるし、さらには人間が確立した慣習であって、実行するかしないかは、私たちの意志にゆだねられていると考える権利もあると私は思う。」
  実のところ、この宗教の架け橋としてのホマラニスモが、極めて広範に広められた様々な宗教に属する司祭たちにとって、受け入れ可能なものだとは思えません。宗教は信仰に基づくものですが、Zの言う「不可解な力」についてのホマラニスモの精神は、「不可解」という点だけで既に不可知論に属しています。しかしながら、宗教が持っていた狂信的な心情は、産業文明のもとに置かれた世界の大部分の地域で、今日ではほとんどなくなっていると言えます。宗教が持つ狂信的な性格は世界の少数の地区に残っているだけで、そこでは現代文明の侵入に対する抵抗があります。さて、多種多様な宗教の存在が原因となって、人間は分離させられてしまったのですが、その人間を相互に結び付ける橋としてのホマラニスモについて語ることは、もはや時代にそぐわないことのように思われます。実際、このホマラニスモという考え方は、自由思想家か不可知論者であるのに、生れついた環境のために自分が受け継いだ伝統的な宗教に、結局今も帰属させられている人たちの間の和解策から成り立っています。その人々は宗教の社会的圧力と縁を切るべきなのかもしれないのですが、そうしなくても、人間的で理性的な倫理を実践出来るようにするための方策なのです。宗教とホマラニスモの関係は、各人の母語とEの関係と同じです。つまり、一つの世界的な倫理観が数多い宗教を越えて人々を結び付けるという点と、唯一の言語Eが人々それぞれの固有の言語を越えて人々を結び付けるという点が同じです。事実、Zの考え方は宗教の面でも言語の面でも同じで、人類のために多様性の中での統合を達成することでした。
  昔から現代に至るまで、倫理道徳は宗教として具体化しましたが、現代では信仰が崩壊して道徳的退廃の危機が迫っています。この危機は単に理論上のものではありません。顕著な実例が多く出て来ています。宗教が崩壊して道徳的退廃を招き、人々は信仰も倫理も失なって動物になり下がり、文明の危機を引きおこしているのです。そういうわけで、このホマラニスモは全人類に対して共通の道徳を提示しています。それはヒレリスモ (hilelismo)の諸原則に即した考え方で、キリスト教の精神の本質に非常によく似ています。
  人は神秘的な教理を軽視して、科学的前提で自分の身を処するすることが出来るというのは本当でしょうか。科学は自然の真実が発見されればされるほど、多くの新しい疑問を生み出すという性格を持っています。知識への道は、同時に人間の無知の発見への道でもあります。今では教義が崩壊し、人々は精神的に不安定なままに人生の荒れ狂う海を航海しているのです。現代では、人々は宗教への信頼を失なってしまいました。そのくせ多くの人々は、宗教と比べてそれほど質の高くはないイデオロギーを一応信じているのですが、その最終結果はしばしば否定的なものだとさえ言えます。
  科学は人間が本当に知りたいと思っている真理を未だ発見していませんし、今後もおそらく発見することはないでしょう。つきつめて言えば、人間はどこから来たのか、何なのか、どこへ行くのか、実存の根本原因は何であるか、ということです。これらの問は、おそらく永遠に答えが出ないままでしょう。これらは森羅万象の謎と並び立つ問であり、人間ならばこその問いなのです。
  Zは「世界を支配している、あの理解し難い至高の「力」について語っています。二十世紀最高の科学者アインシュタイン(A.Einstein,1879-1955)は「宇宙の宗教性」(Kosma Religiemo)ということを言っています。ピエール・ティヤルハール・ド・シャルダン(Pierre Teilhard de Chardin 1881-1955)は、宗教と科学の調和という考えを創案して、終極点「オメガ」(omega)を直覚しています。この極点オメガのなかで良心は宇宙愛に包まれて世界の良心の極点へと凝集していくでしょう。
  Zのホマラニスモから演繹できることは、統合された平和な人類は様々な信仰を越えた共通の倫理を必要としているということですが、まさにそのとおりです。ホマラニスモの教義は、このような宇宙的倫理の発展のための出発点です。

3.イデオロギーの架け橋

  もし宗教というものが、ある限定された地域社会を統合する手段である場合には、宗教の多様性と、宗教が種々の宗派に分裂して崩壊することは、確かに紛争や不和の源泉になります。ヨーロッパでは宗教改革の後で次々と戦いがおきましたが、現代の西洋の文明国では宗教が不和の原因になることはもはやありません。信者たちは、大衆の不可知論と不信心のさなかにあっても、互いに共存する術を学び取っています。今日では、宗教間の架け橋はどうしても建造しなければならないほどの重要な建築物ではありません。
  既にフランス革命の時から、狂信の対象は宗教から政治や社会的イデオロギーへと移行しています。フランスはナポレオンによって民族主義への扉を開きました。それはその後の戦争、特に第1次世界大戦の引き金となったものです。しかし現代では、民族主義も既に戦争の主要な原因ではないようです。共産主義と資本主義の間の紛争による社会的対立が出現したのです。共産主義は世界革命を広げようとします。資本主義はそれに対して自己防衛しようとします。しかし、そのようなイデオロギーの紛争は、今や二次的なものとなりました。紛争はイデオロギーの相違を口実にしてはいますが、実のところは世界的な覇権を得るための紛争です。
  人々を戦争に駆り立てるための動機づけは変化しています。ファシズムやナチズムへの抵抗戦争は、自由のための戦争という形をとっています。フランスの平和主義者自身が、フランスの敗戦の後ではレジスタンス運動に参加しました。現在では、自分が反戦運動をしている人間なのに、戦争の一変種である暴力革命を認めようとする人々がいます。
  自分には暴力革命に参加する力がないと自己の弱さを認めた時、誰かが社会問題を解決しようとして、暴力革命やらテロリズムの暴力行使をすることを公然と認める人がいることは事実です。革命のための暴力の根拠は何でしょうか。宗教的奇跡を信じた時代は過ぎ去りましたが、宗教に対するのと同様な信頼を持って、人々は奇跡的な革命を望んでいるのです。個々の人間に対し、また全人類に対して、いかなる社会問題をも永久に解決し永遠の幸福をもたらすような奇跡的革命を。
  しかし今、20世紀の末には、そのような奇跡の革命に対する信頼は崩壊してしまいました。政治的イデオロギーや社会的イデオロギーへの不信は、宗教的不信と結び付いています。大衆の間に広まったプラグマティズムは、物質中心主義に行き着きます。歴史唯物論であるマルキシズムの理論が資本主義の実践的物質主義に付け加わると、その行き着く先は極度の機械文明になる可能性がありますが、それは麻薬とテロリズムにまみれた文化的退廃のさなかにあるものでしょう。このような物質主義的風潮は、精神文明にとっても、倫理的義務の遂行にとっても、さらには人間の完成を目指す集団行動にとっても、個人的にも集団的にも好ましいものではありません。このことはE運動そのものの停滞を見てもわかることです。
  第1次世界大戦の前には、E普及運動は急速に広まりましたが、今ではその推進力は弱まってしまいました。実際、大多数の人たちは、自分自身の問題と目前のことにしか興味を持たず、団結だの未来だのという様々な呼びかけには耳を貸しません。このような精神風土のなかでは、内在思想を広めようとするE普及運動に新たに参入しようとする人はいません。二つの世界大戦を見ると、第1次は第2次を生み、第2次の後には冷戦が続いたのですが、その大失敗のなかに、あらゆるイデオロギーと、あらゆる理想主義への幻滅が潜んでいるのです。かつて歴史上のある時に、人類的な諸問題が存在したとすれば、現代ではそれ以外にも様々な問題が生れています。種々の革命は失敗し、幻滅が大衆の間に広まりました。しかしながら、人間的な、また、人類的な諸問題は解決すべきであり、いかにしても解決しなければならないものです。そのために私たちは人間の義務、つまり全ての人間と全ての社会的集団のための義務活動という、次の活動領域に踏み込んでいくのです。
  現代の核時代には、かつては理想主義と思われていた問題で単なる幻想であったことでもが当然の義務になります。理想主義は個人的な選択の問題ですが、この義務は全員誰でもが果たさねばならないものです。
  イデオロギーの架け橋としてのE普及運動は、どんなイデオロギーにも人を殺す権利はなく、たとえ改善のためであっても、この世界を壊滅させる権利はないということを宣言すべきです。人間の価値はイデオロギーよりも上のものです。E普及運動というイデオロギーの架け橋は、単に寛容であるということだけでなく、相手を理解しようとすることです。ここにEが相互理解の道具であるし、さらに将来も道具であり続けねばならない理由があります。
  E普及運動は架け橋、いや超架橋であるべきです。ヒューマニズムの世界観に基づいて人間を統合する超架橋です。私たち人間は誰でも、現代では既に共通の運命を担っています。好運であるか、不運であるか、それとも悲運であるかという運命が決まるのは、人間の行動如何にかかっています。その点でE普及運動は、人間が新しい文明を持つための先ず最初の設計図だということになります。
                                           (この章は山口 美智雄 訳)

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